2006/05/08

断酒16年目にあたり思うこと

88会報 (98/11/15)
断酒16年目にあたり思うこと
堀 俊明
今年にはいり4回目の入院中です。躁鬱病は気候の変化に弱く、季節の変わり目にはたいがい入院しています。今でも入院をすると、16年前の記憶が鮮やかに蘇ってきます。私の断酒生活は401号室から始まりました。その時は、瞳孔が開き血圧が0であったようです。意識を取り戻すと母親がいました。金沢にいるはずの母親が、なぜ高知にいるのかが、一瞬理解できませんでした。そして、またやってしまったのかと思いました。自殺という言葉が脳裏をかすめました 私が自分が、どこか普通の人とは違うと感じだしたのは、京都大学を卒業して福井県水産試験場に勤めて1年経った時くらいからです。不眠が続き、精神科に一人で行きました。そこで躁鬱病と告げられました。 不眠と鬱の煩わしさで、酒量が増えてきました。その時代の向精神薬は、今のようには効きませんでした。私の酒は酒を楽しんで飲んでいるのではなく、薬代わりに飲んでいたように、今になっては思えます。鬱の時になるとアルコールを飲み、起きられなってきました。そして、金沢からは母親が迎えにきて、入院するということが一年に一回はあったと思います。 このように20代前半からアルコールをめくってトラブルがあったのですが、躁鬱病のせいだからかわいそうだという周りからの同情がありました。また仕事は研究職という特殊な仕事で、誰にでもできる仕事ではありませんでした。それに加えて、元気な時には人一倍仕事もしましたし、業績も上げていました。 そのような訳で、アルコールに絡むトラブルはあったのですが、すべて、躁鬱病からくるものだという周囲の理解がありました。また、私の飲酒態度は、周囲に好感を持たれるようなものでした。それが、結果的にはアルコール依存症であることの自覚をもたらさなかったのです。 縁があって、躁鬱病の私とでも結婚してくれる女性が現れ、20代半ばで結婚しました。しかし、結婚生活も一年有余しか続けられませんでした。その原因の第一はアルコールであったように思います。このころから、私の飲酒は常軌を逸しているのでないかと感じ始めました。しかし、それも、躁鬱病の症状の一つであると思い込んでいました。 20代後半に仕事を辞めて、郷里の金沢大学の研究室に入りました。この頃は重度のアルコール依存症の状態になっていました。精神病院の鉄格子の中で10回以上、3年以上は生活をしたと思います。しかし、禁断症状というものがなかったので、当の本人は躁鬱病で入院しているだとしか思っていませんでした。

 そのような私に転機が訪れました。最後の金沢での入院の時、母親がついに怒り面会に来なくなりました。そして、断酒に関する本を、10冊ばかり差し入れをしていきました。それを読んで、初めて、私のような禁断症状のないアルコール依存症のタイプがあるのだと気付きました。その時に救われたような思いがしました。病気なら治療すれば良いのだと思ったからです。 そして、そのための最も良いのは、断酒会発祥の地である高知に行くことだと思いました。私は、すぐに高知に行く決心をしました。そして、下司病院に一年間入院をしました。その下司病院で、私は危篤状態になったのです。 それは、初夏の頃です。一緒に入院していた友達が、外泊で飲酒運転をして大怪我をしました。その見舞いに行った帰り道で、あまりにも暑いのでジュースを飲もうと思いました。私は、自動販売機のところに行きました。その時に、ジュースではなく、隣にあるビールの販売機に無意識に硬貨を入れてしまったのです。 それから先のことは、ほとんど覚えてはいません。気が付いたら401号室に母親と一緒に入っていたのです。その時に、私はこのような自分に愛想が尽きて死のうと思いました。しかし、その時に、突然イエス様が「そのようなおまえでも、私は愛しているのだ」と言われたのです。 その時に、初めて、私はこのような惨めでどうしようもない者を愛して下さるお方の存在を知ったのです。その大いなる愛を知り、私にこの人生を受け止めて生きていこうという意志が生まれたのです。私は、それからの人生を、私を新しく生まれ変えさせた下さったお方のために生きようとしました。 そして、このイエス様の愛によって、私と同じ苦しみに会っている人たちの力に少しでもなることができればよいと思えるように変えられたのです。そして、東京神学大学に学士入学をし、牧師になりました。断酒15年は私の人生を確実に変えました。あのアルコール依存症で救いようのなかった男が、今は牧師をしています。 もし私にこの挫折がなかったら、私はこの世のエリートコースを歩んでいただろうと思います。おそらく、人の苦しみを本当の意味では理解できない人間になっていただろうと思います。人間的にいえば鼻持ちならないような人間になっていたでしょう。 私は地位も名誉も富も失いました、しかし、それ以上のものを得ることができたのです。断酒会の人がいう「アル中で良かった」というのは決して強がりではありません。人生の地獄を味わった者にしか分からない幸せがあるのです。

 アルコール依存症は、家族や社会を巻き込むだけに、癌よりも悪性の病気だと私は思います。他人に迷惑をかけないで一人で死ぬことはできないのです。しかし、癌とは違い確実な治療法があるのです。断酒さえできていれば、確実に再発はしないのです。必ず幸せな社会生活を送ることができるのです。 人生のやり直しはできるのです。1年、3年、5年、10年と断酒を続ければ自らが変わります。自らが変われば、社会の見る目が変わります。そうすれば、社会的信頼が回復してきます。私のように牧師になり、再び家庭を持つこともできるのです。 私は、アルコール依存症である今の方が、そうでない時よりもよほど幸せな人生を歩んでいると思っています。断酒15年も自然体で生きれば、そう辛いものではありません。 いつか気が付いたら、もうアルコールを断って15年も経つのかなーというのが本音です。結局、私たちアルコール依存者には、飲む自由と飲まない自由としか与えられていないのです。その中間はないのです。飲む自由を選択した者には、家族や社会を巻き込んだ死しかないのです。しかし、飲まない自由を選んだ者には、無限の可能性があるのです。 私たちはアルコール依存者として下司病院の門をくぐりました。もう後戻りはできないのです。アルコール依存症については、ある程度学び治療も受けました。しかし、これからの人生をどう選択するかは、私たち自身にあるのです。より良い選択をしたいものです。