私の休職時代
療養休暇をしばしば取るので、人事課から休職を命じられ、故郷金沢に帰りました。金沢では金沢大学理学部生物学科の研究生になり、机をいただきました。京都大学の恩師は、金沢大学まで足を運び、生物学科の教授に私を頼み込み、能登半島の臨海実験場までも足を運んでくださいましたが、相変わらず家に引き籠もった生活が続きました。たまに外出をしても大学に行くのではなく、喫茶店で時間をつぶすだけでした。せっかく研究室に机を頂いたのですが、宝の持ち腐れでした。
ある日、なぜ救急車で病院に運ばたのか全く記憶にないのですが、金沢大学付属病院精神科のベットに寝かされていました。京大から恩師がわざわざお見舞いに来てくださったのを見て、主治医に怒られました。京大教授が一人の卒業生を見舞いに来るなんて、私たちの世界では信じられない。堀さん、何が不服でお酒を飲むのですかと言われました。そこから私のリハビリが始まりました。懸垂を始めたのですが、最初は4~5回しかできなかったのですが、退院の時には20回、3セットもできるようになりました。腕立て伏せ100回、3セット、ヒンズースクワット100回、3セットを毎日繰り返しました。消灯時間まで机に座り続け、ひたすら勉強をしました。主治医が良くあんなに勉強をすることができるとあきれていたそうです。
やがて外出が許されると、毎朝6時に特別に用意された朝食を取り、車で能登半島まで出かけ、冬の海に入り海藻を採取し、研究室に戻り、顕微鏡を覗く日々が続きました。冬の海ですから、手が痺れ、車のキーを口でくわえ、ドアを開けることもしばしばでした。様子を見るために同行した主治医は車から出てきませんでした。3ヶ月間一日も休むことなく、能登半島に通い続けました。研究結果は日本水産学会で発表し、生物学科でも話題になりました。
休職も終わりに近づきましたが、私は昔の職場で仕事を続けていく自信が無く、辞表を提出するつもりでしたが、総務課長が次長から辞表を絶対受け取ってはならないと指示されているからと断られ、辞表の提出を見送りました。次長が金沢まで私を迎えに来てくださり、場長を引き受ける条件として、人事課から私に関して一任を取り付けたと言われ、病気で休むのならどれだけ休んでも良いから帰ってきなさいと言われました。大学で個人の立場で研究を続けるのはなかなか大変だからと言われましたが、私が帰れば、私が尊敬していた人格者の次長に迷惑がかかると思い辞職しました。
しかし、それで持てるエネルギーを総て使い果たし、また飲酒してしまいました。金沢大学の構内で倒れていたところを、学生に助けられ、救急車で運ばれたようです。金沢大学の教授からこれ以上面倒を見ることはできないと言われてしまいました。金沢で精神病院の代名詞になっている病院に入院させられ、独房と呼ばれ恐れられている保護室も体験しました。大学に帰る道も絶たれ、孤立無援になりました。母親も怒り、面会にも来なくなりました。絶望の中で高知の断酒会の会員が書いた「断酒に捧げん」に出会いました。断酒会の初代会長、松村春繁氏の生き様、どうしようもないアル中から立ち直り、下司病院の下司院長と共に全国に断酒会を広めていった生き様に憧れました。閉鎖病棟の鉄格子の中で、生きる気力を喪失していた私はこれだと思いました。
断酒会の発祥の地高知で、断酒会のことを学び、金沢で断酒会を造るのが、私に与えられた使命であると感じました。もっとも、閉鎖病棟の中から出られるのならば、何でもするという想いもあったことは否定できません。客観的に見れば、金沢におられなくなった私が、流刑の地土佐に島流し、流刑に処せられたと言う表現が最も相応しいかも知れません。
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