2006/05/08

甦った脳

88会報 (05/08/05)
甦った脳躁鬱病でアルコール依存症の牧師 堀 俊明

 今から4年前、2001年春、それまで週3回は抗鬱剤の点滴を受けていたのが、ある日から点滴を受けに病院へ行かなくなりました。私は心のどこかで抗鬱剤依存症になっているのではないかと恐れていましたが、突然点滴を受ける必要が無くなったのです。

主治医に診察の中で「最近妙に調子が良い。躁になったのかもしれない」と言いました。主治医はニコニコしてカルテの薬の処方欄を広げて「これ、これ」と言ってパキシルを指し示しました。

確かに、主治医からパキシル、SSRI(選択的セルトニン再吸収阻害剤)系統の抗鬱剤が新しく開発されたので試してみないかと言われました。副作用としては眠気があることを説明されましたが、不眠に悩まされていた私は導眠剤をかねるので、むしろ都合が良いと思い、就眠前に飲むように処方してもらいました。

それまで私はパキシルと同じSSRI系統のルボックスを飲んでいたので、新薬だからといって期待はしていませんでした。ジュースの材料がミカンからオレンジに変わったぐらいにしか考えていなかったのです。 

ところが、それまで寝たり起きたりの生活を続け、点滴を受けることによりかろうじて牧師を勤めていた私が、パキシルを飲み続けることにより健康な人に近い生活を送ることができるように変えられたのです。

パキシルにより脳が甦ったのです。SSRIは脳の神経伝達物質であるセロトニンがシナプスの受容体に吸収されるのを防ぎ、セロトニンの濃度を上げることにより脳を鬱状態から解放するそうです。

わかりやすく言えば、躁鬱病、脳の機能の一部の欠損が薬を飲み続けることにより回復するのです。足が不自由で立ち振る舞いが自由にできなかった人が性能の良い義足を手に入れ、健康の人と変わらない生活を送れるようになったようなものです。

30年前、私の最初の主治医は躁鬱病の精神科医でした。患者から診ても明らかに躁鬱病と分かるほど重度の躁鬱病でした。彼は私に「足の不自由な人は車椅子や松葉杖を使うだろう。あなたは薬をそれらの代わりとして利用しなさい。薬を飲み続けることにより健康な人に近い生活が送れれば良いのだから。私は何を忘れても薬だけは持ち忘れないようにしている」と言い、ベルトに取り付けてあるポーチの中の薬を見せてくれました。

これまで飲んできた薬は対症療法で、生活が変わるほど効くものではありませんでしたが、30年間薬は飲み続けてきました。私は私の人生は寝たり起きたりで終わることを想定して生きてきました。その想定がひっくり返ったのです。それは、パキシルを飲み続けることにより、それまで車椅子すら自由に動かせなかった私に、自由に歩き回れる義足が与えられたようなものでした。

私が最初に抱いたのはむしろ違和感、あるいは恐怖感でした。真っ暗な世界で立ち竦み、足元しか見ることのできなかった私に、立ち上がり、目を上げ、目の前の世界を見る力が与えられたのです。目の前の暗闇が薄れ、目の前には未知な世界、自由な天地が広がっていました。

いきなり広がった世界を前にして私の足は竦みました。そーっと足を踏み出し、足を踏ん張ることができるのを確かめ、一歩一歩足を進み出し始めたのです。私は発病前の世界、思春期までしか経験したことのない世界で生きていた頃の感覚を思い出しました。何でもできると信じ込んでいた時代の感覚を思い出したのです。

しかし、現実の世界では私の脳は30年間正常に機能してこなかったのです。たとえ大脳生理学的に脳が正常に機能するようになったとしても、リハビリが必要でした。錆び付いた脳から錆を落とすことが必要でした。

私は脳を活性化させるために、脳のリハビリのために読書をすることを選びました。幸い高知では図書館が整備されています。近くの図書館に行けばオンラインシステムで本を取り寄せてくれます。私は4年間の間に500冊を超える本を読みました。読書を重ねる中で脳の機能は少しずつ甦ってきました。

日常生活も規則正しいものへ変わってきました。4年間一度も鬱状態になったことはありません。寝たり起きたりの状態で一日に一回は布団に潜り込んでいましたが、寝ることはできず、時には眠剤を乱用したこともありました。家内に眠剤を取り上げられるくらいでした。しかし、今では日中布団に入ることはなく、毎日一時間ぐらいソファーで自然に昼寝ができるようになりました。

眠剤の量も半減しましたが、睡眠は十分にとれています。早朝覚醒が続き日の出前からインターネットをしていたこともありましたが、今はゆっくりと目覚めることができるようになりました。

それだけではなく、肉体も脳の機能が回復するにつれて回復してきました。アルコールを飲んでいたときの後遺症でインスリンを使用していますが、糖尿病のコントロールも非常に良くなりました。体の隅々の細胞までが活性化されてきたのを実感します。単に脳の機能が回復しただけではなく、肉体の機能も回復してきました。生活の質そのものが高まったのです。

現代医学の進歩は私たちの予想を遙かに超えています。私のように薬を飲み続けることにより健康な人と変わらない生活を送れるようになった人はまだ少ないかもしれませんが、遠くない未来には様々な薬が開発され、脳の機能が回復される人も増えてくるでしょう。精神病は不治の病ではなく、治る病気になってきたのです。私たちは未来に希望を持つことができるのです。