信徒の友編集部あて
(05/08/12)
「アルコール中毒」良い表現ですね。
信徒の友でこのようないわゆる差別表現とも受け止められかねない言葉が使われるとは思っていませんでした。
断酒会、A.Aの多くの仲間は、例会、ミーティングで自己紹介をするときには「アル中の◯◯です」と言います。
第三者が使う場合には問題があるかもしれませんが、少なくとも自分自身を指して使う場合は許されると思います。
最近、言葉狩りが流行し、訳の分からない言葉が作られています。
本来、差別的なニュアンスを含む言葉には、それに伴う実態がある場合が多いと思います。
実態が改善されないのに言葉だけを変えても、時がたてばその言葉もまた差別的なニュアンスを持つでしょう。
例えば統合失調症、認知症は活字の世界だけの言葉になるように思えます。
確かに本人や家族は一時過去の呪縛から解放されるでしょうが、むしろ曖昧な表現であるからこそさらなる差別を生み出すではないかと思っています。
躁鬱症も気分障害と言い換えるそうですが、話をする相手ごとにまず病気の説明をしなくてはならなくなりますね。
瀬戸キリスト教会には統合失調症の人もいますので、私が牧師として使う言葉としては気をつけて使っています。
しかし、私自身を指すのならば、むしろ普通に用いられてきた言葉の方が差別的ニュアンスも含めてふさわしいと思っています。
私はむしろアル中という言葉が持つ差別的なニュアンスを自らに対する社会の正当な評価だと受け入れています。
アル中はアルコールを止めない限りは社会から排除されるべき存在であることも私は認めます。
それだからこそ、その私を甦らせて下った主の愛の大きさを思うのです。
大きなマイナスだったからこそ、それが逆転されたときには大きなプラスになったのです。
回心は劇的なほどより大きなエネルギーを生み出します。
私が現在生きておられるのも、牧師として主の御用に当たられるのもそのエネルギーによるのでしょう。
私は今回の原稿を書きながら、かつて主が私になされた御業を思い出しました。
私は「心の病」といわれ続け、心さえも暗黒の中で萎えてしまっている仲間のことを思い出さされました。
私が主張し続けてきた「精神病だけれど心は健康である」は、そういう仲間に対する私からのメッセージです。
「主はあなたを愛され、あなたを必要となされている」そう伝えたいと思っています。
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