断酒会で救われた生命
今から20年前になりますか、私は雪国金沢から流刑の地、南国土佐に流刑にされました。アル中である私は金沢におられなくなったのです。断酒会発祥の地、高知に行くと家族を納得させ、高知に来ました。鉄格子の中から出られるのならば何でもするという思いがあったのも事実です。
断酒会にお世話になりながらも飲酒し、断酒会発祥の地である下司病院に入院させられました。それでも懲りず、院内飲酒をしたらしいのですが、前後の経緯は全く覚えていません。気がつくと保護室に寝かされていました。
「あっ!またやってしまった」そう思い、「総てが終わった」、目の前が真っ暗になったときに、「それでも、おまえを愛している」そう言いわれている主の御姿を感じました。自分を自分自身ですら愛することのできなくなった私を、主は愛していると言われたのです。私は生ける主から新しい生命を与えられたのです
後から聞いたところによると、血圧は0になり、瞳孔が開いていたそうです。下司院長の適切な治療により息を吹き返したそうですが、知り合いの看護婦さんに聞いたところ、私のような状態に陥ったら、男性はそのまま息を引き取るケースが多いそうです。
心身共に新しい生命を与えられた私は、生まれた初めて生きたいと思いました。それまで、鬱病であった私は生きる気力を失っていました。私には自殺するだけの気力もなく、ただ酔いの向こうにある暗黒の世界の中で、意識を失っているときのみが、私の心が安らげるときでした。
新しい生命を与えられて、私の人生は180度変えられました。先のことを考えず、断酒一途に生きる決心をしました。断酒をしない限り、私には未来がないからです。
先ず、院内で開催される断酒会だけではなく、院外の断酒会にも、出席できる限り総て出席しました。毎朝朝礼があり、昼か夜かに院内、院外で例会がありました。例会がない日は年に2,3日しかなかっただろうと思います。一年365日、延べ400回以上は例会に出席しただろうと思います。
次に、毎朝3時に起きて、常備灯の下で手紙を毎日3通をノルマにして書きました。迷惑をかけた人々に手紙を書き送ることで過去を償おうとしました。単に棚卸し表を造るだけではではなく、具体的に手紙を書くことが、断酒のためによいと思ったからです。
さらに、例会に出席した後には必ずノートに記録を付けました。記録を付けることで例会の内容をより深めようとしました。断酒を失敗した例を見聞きすることが、断酒への近道になりました。
しかし、鬱状態に陥ったときには、体温は35度を切り、体温計の水銀柱が上がらず、目盛りまで届きませんでした。血圧も60mm を切るときもしばしばでした。同室の人が「寝かしたままにしておけ」と、検温に来た看護婦さんをと追い返したくらいでした。
1年間の闘病生活は、私の一生の中で最も充実した日々であったと思います。生まれて初めて、心身共に、持てる力を総て出し切りました。
世の中に対し斜に構えていた私は、高校時代から授業をさぼり、受験勉強もせず、行き当たりばったりの生活を送ってきたからです。
断酒を継続している人は「アル中で良かった」と言いますが、決して強がりではありません。アルコールでごまかしてきた人生に、正面から向き合い、過去を精算しようとして努力し続ける人間のみが言える言葉だと思います。