2006/05/30

トラックバックについて

 もっさんのおっしゃる通りだと思います。何となく習慣になっていました。ブログ世界の常識がまだ分からないのでお許し下さい。他の人にも随分迷惑をかけていたのだと反省させられました。何せ子供が新しいおもちゃを手にしたようなもので、嬉しくなってあちこち色々なことを試しています。他人の存在がまだ目に入らない、意識できない、段階なので知らずにマナー違反を随分やっているのだろうなーと少々落ち込んでいます。

鰹のたたきをブランド品に

 高知に来て驚いたのは、鰹のたたきが本当に美味しかったことです。金沢で食べた鰹のたたき,あれは何?!、 全く似て非なるものでした。鰹の鮮度に差があるのかも知れませんが、今は日本全国で冷凍の鰹が手に入りますので、それほど差があるとは思えません。結局は料理法そのものに差があるのだと思います。藁で焼き、独特のたれをかけ、ニンニク!を一杯盛りつけた皿鉢が醸し出す独特の雰囲気に酔わされるのです。家々に伝わる秘伝のたれに加え、庶民でも手に入る鰹の安さが南国土佐でしか味わえない鰹のたたきを造り上げているのだと思います。土佐の鰹のたたきは十分にブランド品に成長すると思います。試食すれば万人が納得する味です。

Gさんへの手紙

 やっとヤフー、その他の検索サイトにも登録されたようです。西風の会、瀬戸キリスト教会のHPが出てきます。(障害者自立支援法 調停)でも最初にヒットします。 楽天、ヤフーのブログのアクセスが3000を超しました。3000という数は全共闘時代以来、初めて目にしました。 高知では高知教会だけが礼拝出席が100名を超します。ですから毎日100件のアクセスは信じられない数です。 西風の会のホームページから西風通信に入ってコメントを残してくれた方が2名いました。 Gさんにブログを勧められて良かったと感謝しています。 高知に来てからの日々を「鬱病に生きる」と題して連作で書いていこうと思っています。
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2006/05/29

ブログは社会変革を起こすか

 友人から盛んにブログを立ち上げることを勧められていた時には、ブログに対するイメージが湧かず躊躇していましたが、新聞の書評に将棋の羽生さんがブログ進化論について書いるのが目に付き、早速図書館からかり出してきました。その時に強く印象に残ったのは、ブログには質的に全く新しい文化と政治体制を創り出す可能性があることに触れられていた点でした。 我々団塊の世代は、大なり小なり全共闘運動に影響を受けていますし、その結果が学園に崩壊をもたらしただけなのを知っています。結局我々の世代が残したのは管理教育だけであったのかも知れません。就職し、会社人間となるしか他に生き方を見出すことができず、バブル崩壊へ一気に突き進んでしまいました。 日本はバブル崩壊で従来の社会システムが既に制度疲労を興し、有効に機能しなくなったことを骨身に染みて味わわされましたが、新たな社会システムを創造するには至っていません。世界的規模でも、民主主義が唯一正当な政治システムではないことが明らかになってきています。 新たな政治システムは既にどこかで唱えられているのかも知れませんが、現在の社会を支えているマスコミはそれを抹殺してしまうでしょう。だからこそ誰でもが発信でき、誰でもが受信できるブログが新しい社会システムを作り出す起爆剤になる可能性があります。 明治維新の時に、議会制度をイメージできたのは坂本龍馬を始めとする一部の浪士だけでしたが、自由民権運動が起き、日本帝国憲法が制定され、帝国議会が開催されました。 議会という概念は一度示されれば、目から鱗で、たちまち社会に取り入れられました。民主主義も敗戦でアメリカから日本に移植され、今では日本人の常識になっています。おそらく新しい社会システムも目から鱗のようなものだろうと思います。 私はブログ民主主義を読み感動し、高知市に対して調停を申し立てるのに会わせてブログを立ち上げました。従来の市民運動論からすれば、市役所に乗り込む、ビラを配る、マスコミに取り上げさす、政治家に頼む、そして最後に役人と政治的な取引をする、それでも和解できなければ裁判所に訴えるという道筋を辿るのでしょうが、今回は先ず裁判所に調停を申し立てることから始めました。ブログがどれだけの力を持つかは全く分からないのですが、分からないのなら先ず実行してみるのも新しい市民運動のスタイルだと思います。 ブログの世界の住人になってまだ1ヶ月半ですが、ブログの世界に新しい社会を創造する力、社会変革を引き起こす力が宿っていることを信じたいと思います。
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2006/05/28

鬱病の世界に生きる,1,主と出会う

 私は鬱病の世界の中で30年以上生きてきました。最初の10年間はアルコールの酔いがもたらす暗黒の世界の中でしか生きられない人間になっていました。後の20年間は寝たり起きたりの生活でした。最後の5年間はSSRIのパキシルと出会い、健康な人間に近い生活が送られるようになりました。
 私の人生は、断酒会発祥の地である下司病院に入院した時から変わりました。雪国金沢から頼る人もいない南国土佐へ、断酒を目指して単身で行きましたが、院内飲酒をして人事不省に陥りました。息を吹き返した時に復活の主イエス・キリストとの出会いがありました。その時に私の人生は変えられました。慢性的な自殺と言われる鬱状態の中で、私は生まれて初めて生きることに執着したのです。
 毎朝3時頃に起き常夜灯の下で手紙を書き、開門と同時に散歩を始め、昼、夜は断酒会へ出席をする生活を1年近く続けました。もちろん鬱状態に陥り、体温が35度を切り、体温計の水銀柱が上がらず、測定不能になった時もありました。血圧も極端に落ち、60mmHgを切る時もありました。生理学的に言えば半分死んでいるような状態になることも珍しくはありませんでした。同室の仲間が私を静かに寝かしておくために、検温の看護婦さんを追い返したこともあったぐらいでした。
 1年間の入院生活を終え、一緒に入院していた青年とアパートを借り、自活生活を始めました。学習塾の講師をしていたのですが、何を目的に生きて行ったら良いのかが分かりませんでした。ある日高知教会に東京神学大学の松永学長が講演に来られました。講演を終わった後、松永学長は東京神学大学に人を送って下さいとアピールされました。その時、私の心は激しく打たれました。「これだ!」心に強く迫るものを感じました。
 しかし、躁鬱病でアルコール依存症の人間、退院して1年にも満たない人間を牧師養成機関、神学校に入学させてくれと言うのはあまりにも非常識だという想いもありましたので、松永学長に正直に自分の現在の状況,特に躁鬱病とアルコール依存症は現在進行形であることを書き記し、それでも入学を認めてくれるかと手紙を書きました。松永学長から「東京神学大学はいかなる差別もいたしません」という明確な意思表示が記された丁寧な返事が数日中に届きました。それから高知教会の牧師を説得し、受験に必要な推薦状を書いていただきました。

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信徒のお嬢さんの結婚式

 信徒のお嬢さんの結婚式がありました。お嬢さんは3年前に東京で就職が決まり、初任者研修を受けていたのですが、突然お母さんが心停止状態に陥り、救急車で救命センターに運び込まれました。彼女は初任者研修中でしたが、すぐに故郷に帰り、お母さんの看病に当たりました。幸いお母さんは危機を脱し、後遺症が心配されていたのですが、健康を完全に回復されされました。彼女は東京での職を失い故郷に帰りましたが、素敵な男性に巡り会い、目出度く結婚式を挙げることができました。 もし、お母さんが倒れることがなかったとしたら、彼女は今頃東京でキャリアウーマンとして充実した生活を送っていたかも知れませんが、結婚を考える余裕などなかったでしょう。東京での生活と故郷での生活とのどちらがざ良かったのかは誰にも分かりませんが、ご両親にとっては娘が故郷に帰り結婚をし、家庭を築くようになったのは最高に幸せなことであったでしょう。 「神のなされることは皆その時に適って美しい」と聖書には書かれていますが、永遠の愛を誓う二人を見ていて、神様のなされることは人間の思いをはるかに越えていると感じさせられました。
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2006/05/27

Re.木材資源は高知県に集中しています

 ホームページを見させていただきました。高知県には森林資源が多いのですねー。ダイアモンドの「文明崩壊」には、日本は文明国にも拘わらず森林資源を保護した世界史的にも珍しい国だと指摘されていましたが、土佐藩はそのさいたるものなのですねー。高知県に移住して20年を越しますが、改めて指摘されてなるほどと思いました。雪国金沢から来て驚いたのは、この世に花粉症なる病気があるということでした。これほど森林に囲まれていれば、花粉はどこからでも吹いてきて当然だと思いました。知人が冗談で「花粉症がひどいので金沢に帰る」と言っていましたが、本当に故郷に帰りました。

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Re.ブログ紹介感謝します

 興味深いブログをご紹介してくださり感謝しています。早速ブックマークに追加させていただきました。これから色々書き込みををしたくなるような方だと感じました。彼のブログにトラックバックをさせていただきました。どの様な回答がブログに載せられるか興味があります。ブログ歴がやっと1ヶ月を越したところで、ブログをどう捜して良いのかすらもよく分かっていません。これからも興味深いブログがあったならば是非紹介してください。心から感謝しています。

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2006/05/26

イラクは人類の未来を決まる

 イラクでマリキ首相をトップとする新しい内閣が発足しました。イラクで3年あまり続いた混乱が形式的には終了し、イラクに正統政権ができました。イラク戦争はアメリカが入り口を間違えた戦争でした。アメリカが誇る情報収集能力が機能しなかった、あるいは機能させなかったのか、イラク開戦の大儀であった大量破壊兵器はイラクに存在しなかったことが明らかになりました。マスコミはホワイトハウスによる情報操作を追求しています。アメリカ軍の描いたシナリオでは、イラク正規軍を砂漠で壊滅し、市街戦で大統領親衛隊を撃滅するつもりであったと思われます。戦闘を交じえることなくイラク軍が壊走し、ゲリラになるのは想定外であったでしょう。一方、フセイン大統領はアメリカ軍の侵攻はないと確信していたようです。相互が情勢分析を誤っていたので想定外の状況が現出したのでしょう。ブッシュ大統領は保守的なキリスト教右派の信奉者で、ネオコン、新保守主義、言葉を換えればアメリカ至上主義、新たなる選民思想に傾倒しています。ホワイトハウスのイスラム教徒に対する認識に宗教的な偏見があったのは否定できませんが、自爆テロがこれほど続くことを彼らは予測できませんでした。彼らの思想の根本には民主主義が絶対正しく、民主主義を確立し、民主的な政府ができれば総ての国民がそれを支持すると言う思いこみがあります。イスラム教世界に生きる人たちに対し、異なる文化圏に属する人に対する畏敬の念が見られません。グローバリゼーション、世界経済の統合を金科玉条のごとく掲げるアメリカに対し、イスラム教世界がイスラム文化を主張するのはむしろ当然です。アメリカの誤りは民主主義が普遍的な真理であると錯覚したところにあります。
 民主主義は人類に高度成長時代をもたらしたイデオロギーでしたが、21世紀に入り、人類は等比級数的に激増する人口増加に直面しています。資源は限られており、等差級数的にしか増やせません。人間社会は古典的なマルサスの人口論が現実となる世界に入ろうとしています。社会は民主主義に変わる新しいイデオロギーを求めているのです。神様の創造の御業に相応しいイデオロギーがネオコンとは思われないのですが、それに変わる価値観を暗中模索し、藻掻き苦しんでいるのが現実の世界です。日本のバブル崩壊も新しい価値観を生み出すための産みの苦しみであったのかも知れません。ニート、引きこもりなどと言われる人々は旧来の体制に適応しきれない人々であるのかもしれません。地球規模で見れば、世界の資源は一部の先進国に集中しています。その流れが、中国、インド、ロシア、ブラジル、などの新興地域にも広がっています。その流れから取り残された後進国は飢餓や疾病、内戦で疲弊しています。政治のシステムそのものが機能していない国も少なくありません。イラクやアフガニスタンはその象徴なのかも知れません。アメリカだけではなく、世界の国々の未来、大きく言えば人類の未来をかけた大きな実験場なのかも知れません。イラク問題は単なる日本国外の問題ではなく、人類の未来をかけた問題であり、その意味では日本の国内問題にもなるのです。

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2006/05/25

社会福祉法人の私物化

 障害者自立支援法が施行されるのを見越し、社会福祉法人が乱立しましたが、設立者が理事長に横滑りし、法人を私物化している例を耳にすることが多くなりました。役員を身内で固め、適性ののない人を役員にしたり、独断専行をする例が少なくありません。職員の待遇改善や職場の規律維持には興味を示さず、自分のポリシーを押しつけ、職員からやる気を奪う例が多々見られます。
 自己負担が導入され、障害者が福祉施設を選ぶ時代になりました。障害者に身近に接する職員の支持を得られない経営者は淘汰される時代になりました。障害者が望むのはハードの充実よりもソフトの充実です。例え施設が多少見劣りがしても、信頼できる職員のいる施設に障害者は集まります。障害者の支持を失った施設は自由競争の波にのまれて淘汰されるでしょう。
 福祉の世界でも護送船団方式は通用しない時代になりました。社会福祉法人もこれからは激しい競争の中で生き残りを図らなければなりません。個人商店から法人へどう脱皮していくかがこれからは問われていきます。

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2006/05/24

イラクに対する日本外交

 イラクは、イラク国民自身が決めることですが、連合国家になった方がよいように思えます。民族、宗教の差が日本人の常識を越え、日本人には理解不能です。イラク人相互の凄惨な殺し合いを見ていると、統一国家を打ち立てるのが不可能なように思えます。
 イラクに対して、日本が先ず取り込まなくてはならないのは経済援助です。インフラを整備し、イラク国民の生活を整えることが先決ですが、政治状況が安定しないと何から手を付けて良いのか分かりません。
 イラクには日本旧来の外交手法は通じず、日本外交の真価が問われています。

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2006/05/23

泥地こそ生命の営み

 干潟や泥地には意外と多くの生物が住んでいます。採泥器で泥を抄い、漉し器で泥を洗い流し、ベントス(底生生物)を採取すると、意外に多くのベントスが住んでいることに気づかされますが、砂地ではベントスが採取されることはほとんどありません。学校教育の中では、意外と教えられていない盲点なのかも知れません。生態系を維持ためにはベントスやプランクトンなどの目に付きにくい生物の働きが重要なのです。コンクリートで整理整頓されている河岸や防波堤は、生態系を維持する観点から見れば砂漠(意外と生物が住んではいますが)の風景に似ているのです。

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アクセス2000件

 ブログを立ち上げて一ヶ月が経ちましたが、アクセスが2000件を超しました。私が高知市に調停を申し立てたのを聞いた友人に勧められ、調停の記録を残し、世論に訴える手段として始めたブログですが、これほどの反響があるとは思ってもいませんでした。ブログは人手も費用もかからず、絶対的な強者である行政に対する弱者の武器として有効だと思えますが、そればかりではなく、日々考えたことを文章にするのが習慣になり、脳のリハビリとしても有効であることが分かりました。我々障害者は社会との関わりを失わざるを得ない環境にいますが、ブログを通じて外の世界と関わりを持ち続けるのも社会参加の一つの形態だと思えます。ブログを通じて名も知らぬ多くの人々と交わりを持て、新しい交わりもできたことを感謝しています。

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2006/05/22

共謀罪を廃案に

 戦前の治安維持法が復活?したかのような印象を受けます。テロや国際暴力組織と闘わなければならない時代になったのは事実ですが、共謀しただけで逮捕、拘留、起訴ができる共謀罪は日本の法体系の根本を変えるものです。日本の刑法は実行された行為に対して刑を課すのであって、共謀しただけで罪に問われるのは市民の法感覚からは著しく乖離しています。
 暴力組織のために造られた法が治安維持のために流用された例として、凶器準備集合罪があります。公安当局が共謀罪をフルに活用して市民団体の政治活動を封じ込めにかかることは十分に予測できます。
 市民生活を守るための法が市民生活を管理するための法として活用されたときに管理社会ができあがります。  


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Re.創価学会の横暴

 創価学会は一見温厚そうに見えますが、基本的にはカルト集団です。彼らの教理の基本は折伏です。法華教に屈服させるためには手段を選ばないのが彼らの戦術です。
 法華経に従う国家を創造するのが彼らの基本戦略ですので、彼らは目先の損得には左右されず、長期的なビジョンに従い、一致団結して行動します。
 私には統一原理、創価学会、あるいはオウム真理教は同じ穴の狢に見えます。彼らは教祖の文鮮明、事実上の教祖の池田大作、グルの麻原彰晃を神格化し、信徒をマインドコントロールしている点で同じです。
 創価学会は世俗の力、公明党を持っているだけに非常に危険だと私は感じています。彼らの主張する信教の自由は、創価学会に対する信教の自由であり、その他の宗教については考えてみたこともないでしょう。言論の自由についてもまたしかりです。
 日蓮は革命家としての側面を強く持った宗教家でした。創価学会が戦前、戦中に迫害されたのも、彼らの反体制的体質が日本共産党と同じレベルで国家にとって危険だと判断されたからです。
 創価学会には学会員は身内、家族であり、そうでない者とは質的に異なります。彼らには学会員以外の者は利用するためだけに存在するのです。彼らが身勝手なのは彼らの体質自体が唯我独尊的だからです。それが彼らの教理なのです。

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パキシルの効用

パキシルの効用 2006年05月22日
 私の人生はパキシルを飲み始めてから激変しました。それまでは寝たり起きたりの生活を続けていました。週に2,3回はトリプタノールの点滴を受けに病院に通っていました。それまでSSRIのルボックスを服用していたのですが、主治医から同じSSRIのパキシルを勧められました。私にはオレンジジュースの原料がオレンジからミカンに変わった程度の認識しかありませんでした。ある日、点滴のために病院に通わなくなってきた自分に気づきました。鬱、鬱の私には珍しく躁になったのかと思いましたが,主治医は笑いながら処方箋を指さし、パキシルの効用だと説明してくれました。
 寝たり起きたりの生活で一生を終える覚悟をしていた私には青天の霹靂でした。鬱状態で過ごした30年間の間、私の感情は凍り付いていましたが、少しずつ溶け始め、感情が甦ってきました。次に脳の機能が少しずつ回復してきました。それは雪解けの大地に花々が咲き乱れるような世界でしたが、統一性がないのです。きれいな花々が無秩序に咲き乱れているだけなのです。
 冬眠していた30年間の間に、感情や理性をコントロールする力が失われていたのです。30年間のブランクは大きいものでしたが、冬眠していた脳が甦ったのですから当たり前と言えば当たり前です。特に感情は鬱,鬱状態では凍結していたのが、突然解放されたのですからコントロールをするのが大変でした。
 理性が30年間のブランクを取り戻すためには,意識的なリハビリが必要でした。漫画本すら読めなかったのですが、毎週3,4冊の本を図書館から借りだしました。十津川警部や浅見光彦などの軽い小説から読み始めて現在は進化生物学や歴史のような学術書に近い本が読めるまでに回復してきました。ブログを立ち上げたのもリハビリの一環という側面もあります。
 私の体質がパキシルに特異的に反応したのかも知れませんが、医学の進歩は日進月歩です。新しい薬を服用し続けさえれば、健康な人に近い生活を送られるこ人の数はこれからますます増えてきます。薬の効果が芳しくなく病に苦しんでいる人も、人生を諦めるのではなく医学の進歩に期待しましょう。

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2006/05/21

看護師の待遇改善

 基本的には看護師の待遇改善が第一だと思います。私は入院経験が非常に多く、鉄格子の中での生活も数年になります。患者には看護婦さんは白衣の天使(看護士さんゴメン)なのです。あれだけの過重な労働環境の中にあっても、患者には笑顔を絶やさない看護師はプロ中のプロだと思っています。
 医者はそれに見合う待遇を受けていますが、看護師の待遇は労働環境からするとあまりにもお粗末だと思えます。医療の場では医師と看護師は対等の立場、対等の労働条件であるべきです。患者として看護師の待遇改善を心から支持します。
 ニートの問題ですが、これは我々団塊の世代の責任のような気がします。親が丸抱えだからニートでおられるのです。私たちの時代には学校を卒業したら働くのが当然でした。健康な人間が働かないでおられること自体が信じられません。
 ニートの人たちも親がいなくなれば働かざるを得なくなるわけですから、その働き口として介護の仕事、雑役等が考えられるのかも知れません。
 日本には世界一難しい日本語という障壁がありますから、西欧諸国のようにはならないと思いますが、真面目に働く外国人には門戸を開いておくべきでしょう。

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ブログは弱者の武器

 私は高知市に調停を申し立てたのを機会にブログを立ち上げました。友人から勧められたのですが、毎日100件を超すアクセスがあり驚いています。圧倒的強者である行政と弱者である障害者が話し合うためには弱者もそれなりの武器を持たなくてはなりません。ブログはお金もかからないし、手間もかかりません。街頭のビラ配りで100名の人にビラを読んでもらうためには1桁は多いビラを配らなくてはなりません。それを思えばブログは貧者の、弱者の有力な武器として大いに活用されるべきでしょう。

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2006/05/20

Re:自己決定能力と自己負担は別の問題では?

私の身の回りにいる生活保護を受けている人たちの生活レベルは必要にして十分ではないかと私は感じています。私は扶養家族ですが、家内の収入は月10万円です。食費は二人で月3万円程度です。医療費は糖尿病なので月2万円を超しますが、障害年金で十分に賄える範囲です。光ファイバーが敷設され、テレビ、電話、インターネットをセットで利用しているのが唯一の贅沢かも知れません。私は質、量共に満たされた生活をしていると感じています。
 私は現在の福祉の水準は必要最小限度を満たすものであり、働かない(働けない!)以上それで満足すべきではないかと思っています。「障害者だから何でもただ」という世界はむしろ障害者の自立を妨げる世界だと思います。
 障害者だからこそ、障害者のためにどれだけの税金が使われているかを知るべきです。そのためには1割程度の自己負担をするべきだと思います。精神科の自己負担は障害年金から比べればわずかなものです。
 差別の恐ろしさは、障害者の自己決定権が認られないところにあります。経済的に自立できない人、自己決定をできない人もいるのが現実ですが、少しでも前を向いて進まなくてはならないと思います。
 障害者の置かれている世界は、それなりに恵まれた世界だと私は感じています。お金がないからこそ、お金がかからない時間の過ごし方を考えることが必要です。例えば私は週3~4冊の本を図書館から借りてきています。
 障害者の置かれている世界は、35年間~40年間働きづめで働いてきた人たちの定年後の生活を現在すでに享受していると考えられます。
 現実の障害者の置かれている世界には様々な問題がありますが、先ず障害者の方から、被害者意識を捨て去らなければならないと思います。差別と言えば総てが正当化される時代はすでに過ぎ去ったと思います。
 時代は障害者に一市民としての権利を認めるが、障害者にも一市民としての義務を求める時代に変わってきたと思えます。

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共謀罪を廃案にせよ

 戦前の治安維持法が復活?したかのような印象を受けます。テロや国際暴力組織と闘わなければならない時代になったのは事実ですが、共謀しただけで逮捕、拘留、起訴ができる共謀罪は日本の法体系の根本を変えるものです。日本の刑法は実行された行為に対して刑を課すのであって、共謀しただけで罪に問われるのは市民の法感覚からは著しく乖離しています。
 暴力組織のために造られた法が治安維持のために流用された例として、凶器準備集合罪があります。公安当局が共謀罪をフルに活用して市民団体の政治活動を封じ込めにかかることは十分に予測できます。
 市民生活を守るための法が市民生活を管理するための法として活用されたときに管理社会ができあがります。

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自己決定、自己負担

 障害者自立支援法が施行され、障害者の世界にも自己決定、自己負担の原則が適用されるようになりました。今までは障害者に自己決定能力がないと見なされてきました。自己決定能力がないから自己負担が求められない世界は、障害者から人間の尊厳を奪ってきました。障害者も自己負担をするのだから自己主張する世界が本当の意味でのノーマライゼイション世界です。
 障害者の自己負担は多くて1割ですから、障害年金で払えない額ではありません。昔、エノケン(2,3時代前の喜劇役者)が税金を納められたことを涙を流して喜んだという逸話が残っています。社会の一構成員として応分の負担をすることが、社会から障害者に対する差別感をなくし,障害者自身の自立を促す道となります。

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2006/05/19

パキシルの効果

 パキシルは私には非常に効果がありました。パキシルを飲み始める前までは週に2~3回、トリプタノールの点滴を受けていましたが、パキシルを飲み始めた4年前からは一度も点滴を受けていません。寝たり起きたりの生活でしたが、規則正しい生活に変わりました。現在はパキシルの服用により健康な人に近い生活を送れるようになりました。漫画本ですら読むことができなかった生活を送っていたのですが、ここ数年間は週に3~4冊ペースで読書を楽しめるような生活ペースを維持しています。
 人それぞれに体質が異なり、薬の効果も異なります。主治医を信頼し、あまり副作用に過敏にならない方が良いのではないかと思います。良く効く薬には必ず副作用があることを自覚し、薬のメリット、デメリットを慎重に評価することが肝要だと思います。副作用を恐れて新しい薬との出会いを逃せば、一生後悔することになると思います。

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2006/05/18

知事のコマーシャル出演

知事のコマーシャル出演 2006年05月18日
 高知県に来て、南国土佐での生活に都会では味わえない風情を感じましたが、文化面は都会に比べかなり見劣りがします。県立美術館はハードとしては高いレベルにあると思いますが、ソフト面ではかなり遅れていると思います。知事がコマーシャルに出ることにより、文化事業が盛り上がるのならば知事としての公務にあたると思います。 高知県は経済力では都会に劣るかも知れませんが、都会にないものがたくさんあります。南国土佐の風土で培われた県民性は私たちの誇りですが、文化面は正直言って見劣りがします。知事が先頭になって文化事業を進めるのは県民にとっても良い刺激になりますし、波及効果も大きいと思います。

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住み良い県43位

 私はかつて福井県で原子力発電所の環境アセスメントをしていて発病しました。産業のない福井県が生き残るためには原子力発電所の基地になることが有力な選択肢であったのは間違いありませんが、それ以外の選択肢はなかったのだろうかと今も考えています。福井県がランキング1位なのは福井県の選択が正しかったことの証明でもあるわけですが、それで果たして県民は幸福になったのだろうかと思います。原子力発電所との共存は未来社会の理想かも知れませんが、高知県には高知県なりのビジョンがあって良いだろうと思います。ローテク社会の方が人間が生き易い社会だろうと思います。文明の恩恵を捨てた社会では社会生活は成り立ちませんが、ハイテク社会は人間性を消耗させる社会のような気がします。高知県は高知県らしくむしろ47位を誇るぐらいの気概があって良いのだろうと思います。

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在日コリアン60年目の和解

 在日コリアンが「朝鮮半島統合のための礎となる」という使命感に燃えて活動していたのを目の前にして、平和で自由で物に溢れた日本と国際政治が生み出した悲劇、それに荷担した過去の日本のことを考えさせられたことがありました。北朝鮮を地上の楽園と信じ、金日成を称えていた人たちは今はどうしているのかなーとも思いますが、少なくとも在日コリアンたちの希望が一つの形を取ったのだと前向きに考えたいと思います。いかなる理由があるにしても、一つの国家、民族が二分されている現状は歴史が生み出した悲劇以外の何物でもないと思います。

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2006/05/17

南海地震条例

 南海地震条例が制定されたそうですが、市民生活とは異次元の世界で政治だけが空回りしているような気がします。誰に聞いても南海地震はそう遠くない時期に必ず来ると言うでしょうが、その備えをしていない人が大多数でしょう。人間の想像力は危機に陥った状況を無意識に排除してしまいます。想像を超えた事態に対する危機管理は日頃の訓練を重ねるしかないと思います。町内会、公共施設などで頻繁に訓練を重ねることが、人々の心に危機意識を植え付けることになります。高知県の財政を考えると、お金をかけないでできる避難訓練を頻繁に行うべきです。まだまだ元気なご高齢の方々がおられますので、彼らの力をもっと借りるべきです。地域の安全とご高齢の方々の安全のためだけではなく、彼らに生き甲斐を与えることもでき一石二鳥、いや三鳥?ではないでしょうか。

憲法13条,プライバシー権の侵害

 日本国憲法13条では国民は個人として尊重される権利、生命、自由及び幸福追求に対する権利が保障されています。私生活上の自由として、みだりに私生活に関する情報を収集、管理されないことの自由が保障されていると見なされるべきです。預金通帳の閲覧は、個人の財産権の侵害だけではなく、個人の生活状況も推定され、本人のプライバシー権を侵害するものです。例え警察官、税務官等であっても通帳の閲覧には令状を提示しなければなりません。
 行政には行政が提出を求める書類が個人のプライバシー権を侵害しないように配慮する義務があります。提出を求める個人情報は必要最小限のものに限り、事前に使用目的、使用範囲を明示し、本人の書面による同意を得る必要があります。例えば障害年金の受給は、年金証書、年金払い込み通知書で証明されるので、通帳のコピーの提出を求めたのは個人情報の不当な収集、管理でありプライバシー権の侵害にあたります。

プライバシー権 (憲法13条)を守れ

 私は高知市に対してプライバシー権を侵害された精神的な苦痛に対する慰謝料を高知簡易裁判所の調停に申し立てています。平和憲法(憲法9条)を守ることも大切ですが、私たちの実生活に直接関わるプライバシー権(憲法13条)を確立することも大切です。行政は私たちの個人情報を本人の知らない間に収集しています。行政は膨大な個人情報を収集、管理し、高度な管理社会を造り上げようとしています。個人情報保護法も立法過程でプライバシー権を明記することを見送りました。インターネットの住人は個人情報が行政に恣意的に利用されたときの恐ろしさを実感できると思います。コンピューター社会は管理社会に移行する危険性の高い社会です。個人情報の管理に最大限の注意を払いましょう。

行政を監視しよう

 県、市に対する質問に対しても、インターネットでは無視される可能性が高いような気がします。市民からの声を聞き、それに答えるセクションが充実されなければ市民の声が行政に反映されないと思います。
 行政の現場では係員を前にして膝詰め談判しなければ職員は動かないのが現状ではないでしょうか。市民に開かれた行政はかけ声倒れのような気がします。
 ところで、今回初めて高知市相手に調停を申し立てましたが、裁判所が市民に開かれたきたのを実感しました。誰でも気楽に調停を利用して異議申し立てをすれば、行政側も変わらざるを得ないのではないでしょうか。市民の側にも行政を監視する義務があります。

大ちゃんぜよブログ

 障害者自立支援法は障害者の生活を質的に変える可能性のある法律ですが、運用面で改革されるべき問題点が多々あると思います。先ず行政に個人情報を取り扱うだけの準備ができているかが問われています。現在高知市にプライバシー権の侵害に関して調停を申し立てていますが、担当者が障害者にもう少し優しく、丁寧に接してくれていたらこのような申立をする必要はありませんでした。障害者の自立のための支援法の申請事務が障害者から調停を申し立てられる原因を造ったところに障害者差別の根の深さを感じさせられます。

2006/05/16

パキシルの功罪

 パキシルを服用している若年層の自殺率が高いと報道されていました。私はパキシルを服用することにより健康な人に近い生活を送られるようになりましたが、服用当初は感情が突然回復してきたのに戸惑いました。感情が鬱状態の中で冬眠していたのが、いきなり目覚てきたからです。寝たり起きたりの生活から規則正しい生活が送られるようになってきたからです。感情、体力が回復してきてもそれをコントロールする能力が長い鬱状態の生活の中で失われていたからだと思います。
 発病から30年間、私の時間は停止していました。パキシルを服用し始めた時の私は30年前の私よりもむしろ退化していたのでしょう。パキシルを服用し始めて精神が30年間の空白を埋めようと猛烈に活動し始めたのです。この時期には心身のバランスが崩れました。30年間経験しなかった正常な感覚が戻ってきたからです、今から振り返ると非常に危険な状況に陥っていたのかも知れません。
 私にとってパキシルは心身を健康な人間に近い状態に活性化させる力がありました。パキシルには同じSSRIのルボックスでは見られない顕著な効果がありました。効果が顕著であるだけに、精神力が未発達な人には使いこなせないかも知れません。結果として、自分をコントロールする力のない人間に自殺を実行できるだけの力を与えてしまったのかも知れません。

2006/05/14

ブログ民主主義

 ブログを立ち上げたばかりですが、明確な主張を発信する場として、従来のびら配りとは次元の違う宣伝方法だと感じています。例えばビラを1000枚以上配ろうとすればかなりの労力と時間が必要とされますが、ブログだと一瞬です。問題はアクセス数を増やすことにあると思えます。こまめにメジャーなブログにコメントを書き込むのも一つの手段だと思います。
 玉石混淆のインターネットの世界で人目を惹くのにはそれなりの工夫がいるのでしょう。時間、空間とも一瞬に乗り越える世界にはそれなりの対応が必要だと感じています。ブログの世界が名実共に力を得るときに、現在の民主主義とは質的に違うブログ民主主義の世界が到来するかも知れません。
 団塊の世代は全共闘運動の中で直接民主主義を指向しましたが、失敗に終わりました。直接民主主義に必要な情報の共有ができなかったからです。ブログ民主主義では情報の共有はできますが、情報の利用がまだ未成熟です。そのためには先ずブログを発信してみることから始めなくてはならないのでしょう。

ブログは新しい世界を創る

 ブログには旧来の文化を変える力があると思います。検索サイトを使えばどの様な情報も利用できる世界は、旧来の世界と質的に異なる世界です。最近若者が読書をしなくなり、日本旧来の文化が廃れてきたという論評が見られますが、ブログをする若者は少なくとも自己表現をする能力を求められので、彼らは彼らなりの新しい日本文化を生み出すのではないでしょうか。携帯でブログが見られ、テレビが見られる世界には旧来の文化と質的に違う文化が花咲くのではないでしょうか。団塊の世帯には頭を切り換えなくてはならないのはかなり辛い作業ですが、せめてブログの海を泳ぎ回れなくても、沈まない程度の技術を身につけたいと思います。これからの若い世代がブログを活用した新しい文化を創造していくことを願います。

2006/05/11

病気であること

 私は躁鬱病とアルコール依存症で精神障害2級です。牧師をしていますが、病気と共に生きている姿が神様の栄光を表す証しの人生のように感じています。病気は隠すと、それを隠し通すのが大きな精神的な負担となります。時には人にとんでもない誤解を与えることがあります。病気であることは何も恥ずかしいことではなく、むしろそれを隠して生きる方が恥ずかしい生き方のように感じられます。小沢代表は公人です。一国の運命を左右する立場にある人ですから、病気を公表するのが当たり前で、それをさせなかった日本の風土の方がおかしいと思います。人にとって大切なのは病気といかに共生するかと言うことです。それができれば、病気であることはむしろ人から尊敬を受ける要素に変化していきます。

2006/05/08

憲法改正 

(06/5/5)
日本が世界の国の中で好感度ナンバーワンだそうですが、平和憲法と高度経済成長に対する憧れのようなものが背景にあると思います。確かに、世界の現実、特に中国、北朝鮮の軍事的脅威に対抗するためには日米同盟に頼らざるを得ないのが現実的な判断かも知れませんが、平和憲法が日本の軍事大国化を防ぐ力になってくれています。日本国憲法は進駐軍の手によって造られたのは事実かも知れませんが、戦後半世紀、日本に平和と繁栄をもたらしてきたのも事実です。
 憲法改正は現実の社会の要請から来たものではなく、むしろイデオロギー的な側面が強く感じられます。国旗・国家法案では政府は教育現場に同法を持ち込まないと約束しながらも、教育現場に持ち込まれ、大混乱が引き起こされています。憲法9条を改正するのが現実「自衛隊は軍隊である」を追認することになるのかも知れませんが、憲法が改正されたらどの様な拡大解釈をされるか予測できません。かつて歩んで来た道を再び歩み始める恐れを強く感じさせられます。
 日本の繁栄は愚直に平和を守ってきたところにあります。平和憲法が日本の世界に対し明確なメッセージ「日本は再び軍事大国化しない」を発信しています。世界の常識からすれば風車に向かうドンキホーテーのような国、日本に誇りを持ちたいと思います

税金を病者のゆとりある生活のために使え  

 精神病院から患者さんを地域に移すことは良いことだと思いますが、衣・食・住をどう保障するのかを社会が問われています。就労支援を制度化し、名ばかりの社会復帰幻想を抱かせても、病者は仕事をすることができないから精神障害者なのです。むしろ、就労支援に使う税金を憩いの場に使う方が病者のためになります。あるいは、小規模作業所などの報償費を上げて、少しぐらいは病者の生活にゆとりを持たすべきです。

生き甲斐ある人生を 

生き甲斐ある人生を (06/05/01)
ノエル
 障害者福祉法が施行されましたが、相いも変わらず精神障害者の社会復帰幻想が一人歩きしています。私は研究職の公務員でしたが鬱病を発病してから何回も療養休暇を取り、最後は2年間休職をしました。職場が私に求めたのは朝8時半に出勤をし、午後5時まで職場にいることだけでした。研究室で一日中音楽を聞いていても良かったのですが、耐えられませんでした。最後はトップが復職を促すために故郷まで迎えに来てくれたのですが、期待に添えませんでした。鬱病に労災が適用される前でしたが、病気退職が認められ、退職金も5割程割り増しになりました。私は『なぜ普通の人のように働けないのか』と悩み抜き、精神も肉体もぼろぼろになりました。アルコールの酔いの中にしか生きられない人間になってしまったのです。精神障害者にとって私の職場ほど恵まれた環境はなかったでしょうが、それでも復職はできませんでした。『普通の人のように仕事ができないから障害者なのだ』と認められたのは断酒してから10年以上も経ってからです。私は与えられた人生を喜びを持って生きられるように変えられたのです。
 もし精神障害者が普通の仕事に就いたとすれば、当然生活保護は打ち切られ、障害年金すら支給されなくなる可能性があります。障害者にはフリーター程度の仕事しかありませんので、せいぜい月10数万円も稼げればよい方でしょう。その一方で家賃、国民年金、国民保険、医療費その他の公的負担、5万円程度は支給されなくなりますし、生活費は全く支給されなくなります。自由になるお金は生活保護を受けていた時よりも激減します。毎朝8時には部屋を出、夜6時までは帰られない生活が週5日以上続きます。どんなに疲れても、体調がどれほど優れなくとも仕事を休むことはできません。日々の生活からゆとりが失われ、ストレスは蓄積し、再発、再入院の可能性は極めて高くなると思われます。生活にゆとりを持ちたいと思い仕事を始めても、結果はその正反対なものとなるでしょう。
 私たちは、実現の可能性のない夢を追い続け、日々の生活の中で不満を抱いて生活するよりも、むしろ現実に置かれている状況の中で、実現可能な生き甲斐を求めて生きるべきではないでしょうか。社会も精神障害者に労働の場を提供する方が、福祉にかける費用よりもはるかにコストがかさみます。精神障害者が福祉を活用し、福祉の場で生き甲斐を求めるのが双方にとって利益になります。グループホーム、作業所、デイケアーなどを積極的に活用すれば健康な人が味わえない生き甲斐を見出すこともできるでしょう。少なくとも衣食住が保障され、自分の時間を自由に使うことができるのは、サラリーマンにとっては夢の世界です。
 私は家内の扶養家族ですので、家計と私の会計とは別です。障害年金を受給しているので月2万円を超える医療費を払っても自由に使えるお金が多少手元に残ります。毎日インターネットで月315円と525円で購読している新聞を読み、図書館で借りてきた本を読んでいます。我が家の食費は夫婦で月3万円を切りますが十分に満たされた生活を送っていると感じています。サラリーマンを続けていたならば定年退職後でしか味わえないような豊かな生活を日々楽しんでいます。

障害者自立支援法について 

障害者自立支援法について(06/05/01)ノエル
 障害者自立支援法が4月1日から施行されました。従来の障害により区別されていた障害者サービスを一元的に提供しようとするものです。生活保護を受けている人を除き、自己負担分として10%が求められます。食費も実費を払わなくてはなりませんが、障害年金で生活できる範囲での自己負担です。福祉は無料の世界から福祉も有料の世界へと大きく変わったのです。従来の『福祉はただの世界』から『福祉も自己責任、自己負担が求められる世界』へと変わったのです。
 医療費は生活保護を受けている人は無料ですが、医療費の自己負担が0.5割から1割に増額されました。制度が変わり所得別の負担は分かりにくいのですが、基本的には非課税所帯で扶養家族の障害年金受給者は自己負担の上限2.500円まで求められます。障害年金からすればわずかな負担ですから医療費として自己負担をするのはむしろ当然です。今までがあまりにも恵まれすぎていたのです。
 精神保健福祉法の成立で過去の精神病院に患者を隔離収容する医療から通院主体の医療へと大きく舵を切りましたが、今回の法改正で精神障害者が病院から出て社会の中で生活できるように制度を整えました。先ずグループホームが制度として確立されましたが、一軒の家を借りて6人で生活するとして一人当たり5万円、6人で30万円という報酬では3軒を掛け持ちにしなければ経済的に成り立たないそうです。病院で長い入院生活を送ってきた人たちは衣・食・住が確保されなければその日の生活にも困ります。グループホームの充実が待たれます。
 今回の法改正の目玉は自立支援にあると思われます。自立支援施設には利用者一人当たり10万円以上の報酬が払われますが、利用者に報酬として渡されるお金はその1/10以下です。報酬費よりも利用費の方が高くなり、作業所に通へばお金の持ち出しになるかも知れません。就労施設で訓練を受けて就労できる精神障害者は先ずいないしょう。むしろ利用者の大多数は小規模作業所が憩いの場、団らんの場として機能することを望んでいるのではないでしょうか。精神障害者の求めているのは就労訓練をする場ではなく、気楽に集まれる交わりの場です。
 デイサービス、ショートスティも自己負担が求められますが、障害者の自立を促す施設としてさらに有効に利用されることが求められています。精神障害者の多くは自立イコール就労と錯覚しているように感じられますが、『働かないのではなく、働けないのだ』と言うことを忘れ去っているような気がしてなりません。少なくとも人並みに働くことができるのならば、その人は精神病者かも知れないが精神障害者とは誰も言わないでしょう。障害年金は働けないから支給されるので、働かない人に支給されるものではありません。社会が期待するのは福祉で保障される範囲で、人間らしく生き甲斐を持って生きて欲しいと言うことです。
 精神障害者の自立は町の中で一人でアパートを借り、福祉を十分に活用して人間らしく生きることを目的とすべきでしょう。作業所、デイサービス、ショートスティなどを活用して、生き甲斐探しをしましょう。例え精神障害者であっても『生まれてきて良かった』と思えるような人生を自らの力で造り上げましょう。

精神病が薬により治る時代がきた 

精神病が薬により治る時代がきた (06/04/27)
躁鬱病でアルコール依存症の牧師 堀 俊明

 今から4年前、2001年春、私はそれまで週2~3回は抗鬱剤の点滴を受けていたのですが、突然ある日を境にして点滴を受けに病院へ行必要がなくなりました。主治医に診察の中で「最近妙に調子が良い。躁になったのかもしれない」と言ったら、主治医はニコニコしながらカルテを開き、処方箋に書いてある薬品名パキシルを指差しました。
 数週間前に、主治医からパキシル、SSRI(選択的セロトニン再吸収阻害剤)系統の抗鬱剤が新しく開発され、副作用としては眠気などがあることを説明されましたが、不眠に悩まされていた私は就眠前に飲むように処方してもらいました。私はそれまでパキシルと同じSSRI系統のルボックスを飲んでいたので新薬だからといって期待はしていませんでした。ジュースの材料がミカンからオレンジに変わったぐらいにしか考えていなかったのです。
 ところが、私はそれまで寝たり起きたりの生活を続け、週2~3回の点滴でかろうじて生きてきたのですが、パキシルを飲み続けることにより健康な人に近い生活を送ることが出来るように変えられたのです。私の脳の機能がパキシルにより突然回復させられたのです。
 SSRIは脳の神経伝達物質であるセロトニンが脳細胞のシナプスにある受容体に再吸収されるのを防ぎ、セロトニンの濃度を上げることにより脳を鬱状態から解放させる薬だそうです。私の躁鬱病、脳の機能の一部の欠損がパキシルを飲み続けることにより回復させられたのです。足の機能を失った人が性能の良い義足により健康な人と変わらない生活を送れるように変えられたようなものです。
 35年前、私の最初の主治医は患者から見ても分かるほど重度の躁鬱病でした。彼は私に「足の不自由な人は車椅子や松葉杖を使うだろう。あなたは薬をそれらの代わりとして利用することを考えなさい。薬を飲み続けることにより健康な人に近い生活が送られれば良いのだから。私は何を忘れても薬だけは持ち歩くようにしている」と言い、ベルトに取り付けてあるポーチの中の薬を私に見せてくれました。
 私も35年間、薬を飲み続けてきましたが、私の人生は寝たり起きたりで終わることしか想定していませんでしたが、その想定が突然覆されたのです。それまで足が不自由であった人に自由に歩き回れる義足が与えられたようなものでした。
 私が最初に抱いたのはむしろ違和感、あるいは恐怖感でした。真っ暗な世界の中で屈み込み、足元を見つめることしかできなかった私に突然立ち上がり、目を見上げ、目の前の世界を見つめる力が与えられたのです。目の前の暗闇が薄れ、目の前には未知な世界、自由な天地が広がっていました。
 いきなり広がった世界を前にして私の足は竦みました。そーっと足を踏み出し、足を踏ん張ることができるのを確かめ、一歩一歩足を進み出し始めたのです。私は発病前の世界で生きていた頃の感覚を思い出しました。私は何でもできると信じ込んでいた思春期の感覚を取り戻したのです。
 しかし、現実の世界では私の脳は30年間正常に機能してこなかったのです。例え脳が正常に機能するようになってもリハビリが必要でした。錆び付いた脳から錆を振るい落とすことが必要でした。
 私は脳のリハビリのために読書をすることを選びました。近くの図書館に行けばオンラインシステムで本を取り寄せることができます。4年間の間に7~800冊近い本を読みました。読書を重ねる中で脳の機能は少しずつ甦ってきました。日常生活も規則正しいものへと変わってきました。私は4年間、一度も鬱状態に陥ったことはありません。
 私はそれまで寝たり起きたりの生活を続け、一日に一回は布団に潜り込んでいたのですが、寝ることはできず、時には眠剤を乱用したこともありました。家内に眠剤を取り上げられたくらいでしたが、今では一日一時間ぐらい自然に昼寝ができるようになりました。
 眠剤の量も半減しましたが、睡眠は十分にとれるようになりました。早朝覚醒が続き、日の出前からインターネットをしていたこともありましたが、今はゆっくりと目覚めることができるようになりました。
 それだけではなく、肉体も脳の機能が回復するにつれて回復してきました。インスリン、甲状腺ホルモンを補いながら生活をしていますが、体の隅々の細胞までが活性化されてきたのを実感することができます。
 単に脳の機能が回復しただけではなく、肉体の機能も回復してきました。QOL、生活の質そのものが高まってきたのです。
 現代の精神医学の進歩は私たちの予想を遙かに超えています。私のように薬を飲み続けることにより健康な人と変わらない生活を送れるようになった人はまだ少ないかもしれませんが、そう遠くない未来には様々な薬が開発され、脳の機能が薬により回復される人も増えてくるでしょう。
 精神病は不治の病ではなく、治る病気になってきたのです。私たちは未来に希望を持って生きることができるのです。

精神障害者ではあるが心は健康である

「精神障害者ではあるが心は健康である」 (06/04/01) 
 私は、躁鬱病でアルコール依存症です。主治医の勧めで障害年金の申請をしましたが、診断書には「配偶者(主任牧師)の介護を受けて牧師の職を努めている」と書かれていました。現在、精神障害2級に認定されています。妻の助けがなければ、一人で生活できない状態です。

 発病したのは、1972年に京都大学を卒業して、「原子力発電所からの温排水が生物に与える影響」を研究していた時でした。まだ日本では環境アセスメントという言葉が市民権を持っていなかった時です。

 研究機関に努めて2年目の木の芽時に発病しました。原子力発電の環境アセスメントというストレスの多い仕事に就き、眠れない日が続きました。睡眠薬の変わりにアルコールを飲みましたが、どれだけ飲んでも眠れなくなりました。
 
 当然勤務態度にも影響が出始め、アルコールの匂いをさせながら出勤したり、突然欠勤するようになりました。それに加え、私には、何か分からないけれども、普通の人とどこかが違うという思いがありました。それで、精神科に受診すると躁鬱病であると診断されました。

 また、アルコールをだんだん手放せなくなりました。鬱の時にはアルコ?ルを飲んで総てのことを忘れようとしました。躁の時はアルコールを飲んで騒ぎ回りました。そういう私がアルコール依存症になるまでにはそう時間がかかりませんでした。

 職場の実験用のアルコールにさえ手を出すようになってきました。アルコールを飲み人事不省になり、職場からの連絡により、母親が迎えに来るということがしばしば起き始めてきました。 最初は内科に入院したのですが、外に出てゆき、アルコールを飲んで人事不省になり、救急車やパトカーの面倒になるようになりました。

 ついに内科では面倒を見られないといわれ、精神科の鉄格子の中に入れられました。それでも考えることは、今度退院したら、いかににうまくアルコールを飲むかということだけでした。明らかに人間失格という状態でした。

 私は、10年間に10回以上入退院をしたように思えます。鉄格子のある病院で過ごした年月も3年以上になるのではないかと思います。その間離婚を経験し、仕事も6年しか続けられませんでした。

 客観的には、明らかに精神障害者ですが、私にはそれを認めることが出来ませんでした。しかし、私のような人間は生きていく資格がないと思っていました。自分自身を愛することが出来なくなっていました。ただ誰にも迷惑を掛けずに死にたい、そう思うようになりました。 

 その様な私に転機を与えたのが、「断酒に捧げん」という一冊の本でした。断酒会の初代会長で松村春繁氏の生き様を書いた本でした。その本を読み始めて、初めて自分がアルコール依存症ではないかと思いました。

 そしてアルコールだけは止めようと決心して、断酒会発祥の地である下司病院に、金沢から高知まで単身で来て1年間入院をしました。しかし、それだけの意志があったのに関わらず、無意識に自動販売機のビールを買って飲んでしまいました。

 それからのことは覚えていないのですが、急性アルコール中毒で瞳孔は開き血圧は0となりました。それから、息を吹き返した私は生きることに絶望して死のうと思いました。するとその時に、突然イエス様の「それでもおまえを愛している」という声が聞こえました。

 悩み苦しんでいる私と「共に歩む」と言われたのです。自分自身でも愛することの出来なかった私を、イエス様は「愛している」と言われたのです。

 その時に私は躁鬱病でアルコール中毒の自分を認め、初めて自分自身を愛することがで来たのです。それから20年間断酒は続いています。躁鬱病とも仲良く暮らしています。 

 私は1984年12月に宗教とは関係なく、精神障害を持った仲間と共に「西風の会」を作りました。その中で、世間では「心の病」という表現を使いますが、なぜ精神障害者であるから「心が病んでいる」のか疑問に思いました。

 精神障害者の「心が病んでいる」というのは、いわゆる健常者の傲りりのように感じられます。 精神障害とは、脳という体の一部の、機能不全だと思います。身体障害の延長線上にあると思っています。

 ですから私は「精神障害者ではあるが心は健康である」と声を大にして叫ばずにはおれません。 医学的な治療は必要不可欠ですが、それと同時に心を豊かにするために、その人なりのものを身に付けいくことが大切です。

 西風の会に行けば、様々なタイプの精神障害者がいます。それらの人との交わりの中で、自分をもう一度見直すことがで来ます。その中で、自分を客観的に見つめ直すことが出来るし、その様な自分を受け入れることが出来るのです。

 そして、私達精神障害者は、精神病から解き放たれ、新たな道を歩み始めつつあるのです。

信徒の友編集部あて

(05/08/12)
「アルコール中毒」良い表現ですね。

信徒の友でこのようないわゆる差別表現とも受け止められかねない言葉が使われるとは思っていませんでした。

断酒会、A.Aの多くの仲間は、例会、ミーティングで自己紹介をするときには「アル中の◯◯です」と言います。

第三者が使う場合には問題があるかもしれませんが、少なくとも自分自身を指して使う場合は許されると思います。

最近、言葉狩りが流行し、訳の分からない言葉が作られています。

本来、差別的なニュアンスを含む言葉には、それに伴う実態がある場合が多いと思います。

実態が改善されないのに言葉だけを変えても、時がたてばその言葉もまた差別的なニュアンスを持つでしょう。

例えば統合失調症、認知症は活字の世界だけの言葉になるように思えます。

確かに本人や家族は一時過去の呪縛から解放されるでしょうが、むしろ曖昧な表現であるからこそさらなる差別を生み出すではないかと思っています。

躁鬱症も気分障害と言い換えるそうですが、話をする相手ごとにまず病気の説明をしなくてはならなくなりますね。

瀬戸キリスト教会には統合失調症の人もいますので、私が牧師として使う言葉としては気をつけて使っています。

しかし、私自身を指すのならば、むしろ普通に用いられてきた言葉の方が差別的ニュアンスも含めてふさわしいと思っています。

私はむしろアル中という言葉が持つ差別的なニュアンスを自らに対する社会の正当な評価だと受け入れています。

アル中はアルコールを止めない限りは社会から排除されるべき存在であることも私は認めます。

それだからこそ、その私を甦らせて下った主の愛の大きさを思うのです。

大きなマイナスだったからこそ、それが逆転されたときには大きなプラスになったのです。

回心は劇的なほどより大きなエネルギーを生み出します。

私が現在生きておられるのも、牧師として主の御用に当たられるのもそのエネルギーによるのでしょう。

私は今回の原稿を書きながら、かつて主が私になされた御業を思い出しました。

私は「心の病」といわれ続け、心さえも暗黒の中で萎えてしまっている仲間のことを思い出さされました。

私が主張し続けてきた「精神病だけれど心は健康である」は、そういう仲間に対する私からのメッセージです。

「主はあなたを愛され、あなたを必要となされている」そう伝えたいと思っています。

「慰めの祈りー病むときに」

(05/08/12)
「慰めの祈りー病むときに」   信徒の友新刊紹介
堀 俊明  

 「病も主から与えられた賜物、特別な恵みである」に気付き、主の恵みに感謝することができれば、人は癒され、平安な心を取り戻すことができます。たとえ肉体が癒されなくても、心は甦り、主の愛と恵みを賛美することができるように変えられます。

 私は躁鬱病と「アルコール中毒」で精神障害2級の牧師です。私には、鉄格子のある病院で何年かを過ごした経験があります。私は入院中にも関わらずアルコールを飲み、人事不省に陥り、瞳孔が開き血圧が0になった時に生ける主に甦らされました。

 自分自身ですら自分を見捨ててしまった時に、復活の主は「それでもおまえを愛している」と言われました。その時に、私の心は甦りました。躁鬱病は、脳の機能の一部の欠損つまり肉体の病気ですので、肉体は癒されませんでしたが、心は甦らされたのです。

 私は、私の人生をすべて主に委ねました。寝たり起きたりの生活の中で、東京神学大学への進学・卒業、牧師、結婚、そして開拓伝道へと私の人生は開かれました。

 私の妻も病気の私を助けるためか牧師に召されました。躁鬱病は癒されないと思っていましたが 、新しい薬が開発され、薬を飲み続ける限り、健康な人に近い生活が送れるようになりました。

 今、私の体から聴力も失われつつあります。現在は身体障害4級です。教会員の祈りを聞き取る能力はすでに失われています。補聴器を付けていますが、現代医学が進歩しても回復することはないでしょう。

 人は病に陥った時には、肉体は医療に委ねなければなりませんが、心は主に委ねなければなりません。生ける主との生きた交わりこそが、人に生きる力を与えてくれるのです。人は病むと祈る言葉さえ失ってしまう時がありますが、その時にこそ、この本を開き主に祈ってみましょう。まず祈りの言葉を口から出してみることが大切なのです。

 人は祈りを口にすることで、生ける主との交わりを回復することができます。祈りこそが、人の心を癒してくれるのです。

 人は病の時に悩み、苦しみ、戸惑います。今まで信じていたものが音を立てて崩れ落ちるのを経験します。病気に対する不安、病院生活に対する不安、未来に対する不安などが私たちの心を必要以上に苛みます。肉体よりも心が病んでしまうのです。時には肉体は癒されても、心は癒されない場合すらあります。

 そのような時にこそ、私たちは主に悩み、苦しみを訴えればよいのです。自分一人で耐えるのではなく、主が共に耐えてくださります。主と共に歩めば、病の時にも希望を持つことができます。主により新しい道が開かれるのです。

 主は私たちの心を癒してくださります。たとえ肉体がいかに病で傷つこうとも、心が病まない限り人は希望を持って生きることができるのです。

 人は病に陥った時に、特に主を身近に感じます。病の時、生ける主との交わりで心が癒されることこそが、主から与えられた特別な恵みなのです。たとえ現代医学の限界に生きる道が絶たれたとしても、天国への道を平安に歩むことができるのです。

心のリハビリ

心のリハビリ (05/08/16)
堀 俊明 

 精神病はパソコンに例えると分かりやすいかもしれません。脳はハード、パソコン本体で、心はソフトに例えられると思います。精神病の多くは先ずハード、脳の機能が損なわれパソコンが正常に機能しない状態をさすと思います。ハードが正常に機能しなければ当然ソフト、心にも異常が表れます。ハードの異常がソフトを巻き込みパソコンが正常に機能しなくなります。多くの精神病、躁鬱病、統合失調症、癲癇などは何らかの理由で脳の機能が損なわれ、精神活動に異常をきたすのではないかと私は考えています。

 逆にハード、ソフトとも正常に機能していたのに、ソフトが処理できないような情報が入力されて先ずソフトがダウンし、ハードも正常に機能しなくなったのが、神経症、PTSDのような心の病気ではないかと思います。

 精神病は思春期に発病しやすいといわれますが、子供の脳から大人の脳に脳が成長するときに、脳の機能の異常が現れやすくなるのでしょう。脳が正常に機能しなければ、正確な情報が心に達しないので、心は正常に発達しません。外から見ると、脳の機能に異常があるのは分かりませんから、心の病気と言われてきました。

 しかし、心は人間を人間たらしめるものです。人間はコンピューターに例えられる存在ではないのです。脳という肉体に属する存在ではないのです。例えばコンピューターの性能がいかに高まっても決して人間の代わりにはなれないのです。人間の心は人間固有のものなのです。

 人間の心は人間が本来持って生まれてきたものですが、肉体が成長すると共に成長していきます。この成長の過程で脳の機能が損なわれ、心まで蝕まれる場合があるのです。多くの精神病で苦しむ人は、脳が正常に機能しないのに加え、心までが病んでしまっているのです。

 先ず精神病の治療は脳の機能を回復さすところにあります。最近、新しい薬が開発されてきていますから、精神病で脳の機能が犯されている多くの人たちの脳は薬を飲み続ければ回復するようになるでしょう。

 医療は脳の機能の回復のために、先ず薬、さらに脳のリハビリの場を提供します。社会は精神障害者に対して様々な福祉政策を講じています。社会生活を支えるために障害者年金、社会参加のために社会福祉施設などを用意していますが、いずれもハードを対象にしたものにすぎません。

 私たちの脳の機能は薬を飲み続けることにより回復しても、一番大切な心は回復していないのです。医療は脳の機能を回復さすことはできますが、心は各自に固有なものですから医療の対象にはできませんし、対象にしてもらっては困ります。医療は人格、心を改造することをしてはならないのです。

 心の問題は医療ではなく、宗教、思想、哲学などが取り扱うべきものなのです。脳の機能が回復するにつれ、自分の置かれている状況が次第に見えてくるようになります。失った過去に対する怨念や現在置かれている状況に対する不満などが心を激しく揺さぶります。薬の効果が現れ、脳が正常に機能し始めると、むしろ心は激しく動揺し、不安は増大するのです。

 私たちは脳のリハビリと共に心のリハビリに励まなくてはならないのです。精神障害の世界の中に閉じこもっていた心を解放しなくてはならないのです。闇の中で震えおののいていた心を明るい光の下へ導かなくてはならないのです。これから歩んでいくべき方向、目標を定めなくてはならないのです。

 私は長い格闘の中でそれがイエス・キリストだと信じられるようになりました。「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう」それが実感として感じられるようになるまでには長い年月がかかりました。アルコール依存症で入院していたのにも関わらず飲酒し、血圧が0になり、瞳孔が開き仮死状態になったところから甦った時、自分ですら自分を見捨てた時に「それでもおまえを愛している」という主の声を聞いたのです。

 その時から一度死んでいた私の心は甦りました。躁鬱病でアルコール依存症の脳は回復しませんでしたが、心は回復し始めたのです。相変わらず寝たり起きたりの生活でしたが、東京神学大学進学、牧師、結婚と私の人生は変えられました。生きる目標、意義を見つけられたことが私の心を甦らせたのです。

 私は20年前ぐらいから「私は精神障害者だけど心は健康だ」と主張し続けてきました。例え脳の機能が損なわれていても、心が健康ならばその人は健康なのです。普通の人のように生活できないとしても、人間としての誇りを失わなければその人は健康といえるのです。

 さらにこれからは、医学がものすごいスピードで進歩します。脳の機能を回復さすための手段は格段に進化します。現在の常識では語れない世界がやってくるでしょう。私自身も新しく開発された抗鬱剤パキシル、SSRIを飲み続けることにより肉体の健康も回復しました。

しかし、いくら脳の機能が回復したからといって、心が回復しなければ病気から解放されたとはいえないのです。心を回復させる手段は昔も、今も、これからも変わらないのです。自分で信じられる道を探し求め、それを見つけることなのです。脳が癒されても、心のリハビリを続けなくてはならないのです。

 信仰はその答えの一つです。主を信じる者には信仰は絶大な力を与えます。それは脳、肉体が直接癒されると言う意味ではなく、心が癒されることにより病を乗り越えることができるという意味です。かつて自分自身を卑しめていた自己から解放され、人間としての尊厳を回復するという意味です。精神病が不治の病から治る病になってきたからこそ、心のリハビリが求められるのです。

甦った脳

88会報 (05/08/05)
甦った脳躁鬱病でアルコール依存症の牧師 堀 俊明

 今から4年前、2001年春、それまで週3回は抗鬱剤の点滴を受けていたのが、ある日から点滴を受けに病院へ行かなくなりました。私は心のどこかで抗鬱剤依存症になっているのではないかと恐れていましたが、突然点滴を受ける必要が無くなったのです。

主治医に診察の中で「最近妙に調子が良い。躁になったのかもしれない」と言いました。主治医はニコニコしてカルテの薬の処方欄を広げて「これ、これ」と言ってパキシルを指し示しました。

確かに、主治医からパキシル、SSRI(選択的セルトニン再吸収阻害剤)系統の抗鬱剤が新しく開発されたので試してみないかと言われました。副作用としては眠気があることを説明されましたが、不眠に悩まされていた私は導眠剤をかねるので、むしろ都合が良いと思い、就眠前に飲むように処方してもらいました。

それまで私はパキシルと同じSSRI系統のルボックスを飲んでいたので、新薬だからといって期待はしていませんでした。ジュースの材料がミカンからオレンジに変わったぐらいにしか考えていなかったのです。 

ところが、それまで寝たり起きたりの生活を続け、点滴を受けることによりかろうじて牧師を勤めていた私が、パキシルを飲み続けることにより健康な人に近い生活を送ることができるように変えられたのです。

パキシルにより脳が甦ったのです。SSRIは脳の神経伝達物質であるセロトニンがシナプスの受容体に吸収されるのを防ぎ、セロトニンの濃度を上げることにより脳を鬱状態から解放するそうです。

わかりやすく言えば、躁鬱病、脳の機能の一部の欠損が薬を飲み続けることにより回復するのです。足が不自由で立ち振る舞いが自由にできなかった人が性能の良い義足を手に入れ、健康の人と変わらない生活を送れるようになったようなものです。

30年前、私の最初の主治医は躁鬱病の精神科医でした。患者から診ても明らかに躁鬱病と分かるほど重度の躁鬱病でした。彼は私に「足の不自由な人は車椅子や松葉杖を使うだろう。あなたは薬をそれらの代わりとして利用しなさい。薬を飲み続けることにより健康な人に近い生活が送れれば良いのだから。私は何を忘れても薬だけは持ち忘れないようにしている」と言い、ベルトに取り付けてあるポーチの中の薬を見せてくれました。

これまで飲んできた薬は対症療法で、生活が変わるほど効くものではありませんでしたが、30年間薬は飲み続けてきました。私は私の人生は寝たり起きたりで終わることを想定して生きてきました。その想定がひっくり返ったのです。それは、パキシルを飲み続けることにより、それまで車椅子すら自由に動かせなかった私に、自由に歩き回れる義足が与えられたようなものでした。

私が最初に抱いたのはむしろ違和感、あるいは恐怖感でした。真っ暗な世界で立ち竦み、足元しか見ることのできなかった私に、立ち上がり、目を上げ、目の前の世界を見る力が与えられたのです。目の前の暗闇が薄れ、目の前には未知な世界、自由な天地が広がっていました。

いきなり広がった世界を前にして私の足は竦みました。そーっと足を踏み出し、足を踏ん張ることができるのを確かめ、一歩一歩足を進み出し始めたのです。私は発病前の世界、思春期までしか経験したことのない世界で生きていた頃の感覚を思い出しました。何でもできると信じ込んでいた時代の感覚を思い出したのです。

しかし、現実の世界では私の脳は30年間正常に機能してこなかったのです。たとえ大脳生理学的に脳が正常に機能するようになったとしても、リハビリが必要でした。錆び付いた脳から錆を落とすことが必要でした。

私は脳を活性化させるために、脳のリハビリのために読書をすることを選びました。幸い高知では図書館が整備されています。近くの図書館に行けばオンラインシステムで本を取り寄せてくれます。私は4年間の間に500冊を超える本を読みました。読書を重ねる中で脳の機能は少しずつ甦ってきました。

日常生活も規則正しいものへ変わってきました。4年間一度も鬱状態になったことはありません。寝たり起きたりの状態で一日に一回は布団に潜り込んでいましたが、寝ることはできず、時には眠剤を乱用したこともありました。家内に眠剤を取り上げられるくらいでした。しかし、今では日中布団に入ることはなく、毎日一時間ぐらいソファーで自然に昼寝ができるようになりました。

眠剤の量も半減しましたが、睡眠は十分にとれています。早朝覚醒が続き日の出前からインターネットをしていたこともありましたが、今はゆっくりと目覚めることができるようになりました。

それだけではなく、肉体も脳の機能が回復するにつれて回復してきました。アルコールを飲んでいたときの後遺症でインスリンを使用していますが、糖尿病のコントロールも非常に良くなりました。体の隅々の細胞までが活性化されてきたのを実感します。単に脳の機能が回復しただけではなく、肉体の機能も回復してきました。生活の質そのものが高まったのです。

現代医学の進歩は私たちの予想を遙かに超えています。私のように薬を飲み続けることにより健康な人と変わらない生活を送れるようになった人はまだ少ないかもしれませんが、遠くない未来には様々な薬が開発され、脳の機能が回復される人も増えてくるでしょう。精神病は不治の病ではなく、治る病気になってきたのです。私たちは未来に希望を持つことができるのです。

Yさんへの手紙 

(05//07/15)
お手紙ありがとうございました。
編集の段階で今回の原稿でよいのであれば私には異論ありません。
使われる用語として健常者は避けてください。
健常者という言葉には健康なものと障害者を選別してしまうようなニュアンスを感じてしまうからです。
精神病は肉体の一部である脳の機能の一部欠損という意味で肉体の病気です。
その意味では他の肉体的な病気や障害と同じだと思っています。
精神病者は脳の機能が犯されることから心が病んでくるのに加え、
社会から受ける差別と偏見からも心が病んでくると言う意味で心の病気です。
肉体が病んでいる人も様々な悩み苦しみの中で心が病んできています。
その意味では肉体が病んでいる人の多くは、心も病んでいると言っても良いだろうと思います。
私は精神病をパソコンのようなものだと理解しています。
ハード(脳)が先ず壊されます。それに連れてソフト(心)も壊れてしまいます。
壊れているのにさらにいろいろいじくり回されてパソコンは完全に壊れてしまいます。
これが現在の精神障害者の置かれている状態です。
壊れたパソコンを直すには先ずハードを直さなければなりません。
このためには薬を飲み脳の機能を回復させなくてはなりません。
私の場合は選択的セルトニン再吸収阻害剤を飲み、
セルトニンの再吸収を妨げ、脳内のセルトニンの濃度を高める必要があったのです。
セルトニンの濃度が上がり、鬱状態が緩和され、脳が正常に機能するようになりました。
詳しいことは薬品名SSRIで調べてみてください。
ここまでは精神科医の領域です。
パソコンのハードが正常になって初めてソフトの異常を修正することができはじめます。
ソフト(心)を修正するのはカウンセリングです。
カウンセリングは医療技術の一つですが、心の問題を扱う以上、信仰がなければできません
心は教会の領域なのです。信仰が心を癒すことができるのです。
ハードは医療で、ソフトは教会で治すのが最善だと思います。
それからパソコンを正常に稼働指すためには、慣らし運転(リハビリ)をしなければなりません。
社会に復帰するには様々なリハビリ環境(社会復帰施設)が必要なのです。
結局この三者が協力し合って初めてパソコンは正常に稼働し始めるのです。
一人の人間を社会に戻し、人間らしく暮らせるようにすることができるのです。
この過程を経るのには強い精神力が必要です。
常に前を向いて、希望を失わず、いかなる困難にも耐えうる精神力が必要なのです。
それを与えられるのは生ける主です。生ける主との生きた交わりが必要なのです。
だから絶えず生ける主に祈り求めることが必要なのです。
祈りは人に生きる希望をもたらします。希望こそが病めるときに一番必要なものなのです。
少し長くなりましたが、私の基本的な考えを書いておきました。
何かの参考にしていただければ幸いです。

Kさんへの手紙 

(05/01/20)
主の御名を賛美します
 今日は大寒ですが高知も寒い朝でした。山間部では雪が降っているようです。高知市内の気温は早朝には氷点下に下がったのではないでしょうか。最近寒い日が続いていますがお元気でお過ごしでしょうか。
 Kさんが心筋梗塞で倒れられたとは知りませんでした。死線を彷徨いながらも生還されたのですね。主に甦らせられたのですね。新たに与えられた人生を主に感謝しながら生きて行かれることを望んでいます。
 O先生が特別伝道集会に来られた時の姿に何となくどこかぎこちないものを感じていました。先生がKさんが本当に感謝しているのだと言われた言い方が異常に真剣なのに何か引っかかるものを感じていました。また説教が鬼気迫るもので講壇の後ろに具体的な人の影を感じたのですが、その時はおそらく息子さんのことだろうかとも思っていました。Kさんのことをお聞きして納得しました。土佐大人のO先生とハチキン?のY先生の絶妙な組み合わせはすごいと感じさせられています。良い先生に出会われましたね。神様の導きの強さを感じさせられています。
 私は平安な毎日を送っています。私は精神障害者手帳と身体障害者手帳を持ています。精神科と内科に2週間に1度ずつ、結局毎週病院に通っています。糖尿病はアルコールを飲んでいた時に膵臓に石ができてしまったので治らないと言われています。朝晩にインスリンを注射しています。もし南海大地震に襲われてインスリンが手に入らなくなれば私は死にます。精神科の薬も手に入らなければ精神的に持たないでしょう。そういう意味では私の健康も何時損なわれるか分かりません。経済的にも家内は生活保護の人たちがうらやましいという生活です。この世の基準からすればなんと可哀想な人と言うことになるのでしょうが、毎日本の世界に遊び、三食をキチンと取ることができることを主に感謝しています。毎晩平安な気持ちで床に入ることができるようになりました。
 人はコップに水が半分入っているのを見て、ある人はまだ半分も水が残っていると思い、ある人はもう半分しか残っていないと思います。かつてアルコールに囚われていた私はもう半分しか残っていないと焦り、悶え、飢え乾き、何かに追い立てられている様な日々を過ごしていました。ただひたすらアルコールを飲み、酔いの向こうにある暗闇の中に逃げ込んでいました。しかし、アルコールを飲めば飲むほど飢え乾き、ひたすら飲み続け肉体が破壊されました。
 復活の主により甦らされた私は少しづつ変えられてきました。主により一度空になったコップに再び水が満たされたのです。世間の常識からすればそれはわずかのものかも知れませんが、無が有になったのです。私はこの主から与えられた、人から見ればわずかな量かも知れませんが、貴重な水がまだ残されていることに感謝しながら日々を送っています。
 最近は晴耕雨読の日々を送っています。自転車で行けるところに長浜図書館があります。本館とオンラインで結ばれているので、新刊書や珍しい本も取り寄せることができます。かつては新聞どころか漫画も読めなかったのですが、最近は朝から晩まで読書三昧の日々を送ることができるようになりました。図書館からは既に何百冊かの本を借り出しています。本をいちいち購入していたらおそらく新車一台分に相当するお金がいったかも知れません。書斎は本で埋まっていたでしょう。
 眞知子牧師が高知中央教会の代務を引き受けているので、お昼をベルゲンというパン屋で取ります。ミックスジュースを頼めば200円以下のパンが1個50円で食べられます。二人で1200円分のパンを食べ、ミックスジュースを飲み1100円ですむのですが、1週間この日を楽しみに待っています。第2,4土曜日に小僧寿しで手巻きの日があるのですが、1個84円の手巻き寿司を10個買ってきて二人で食べるのを楽しみにしています。その日を忘れないようにカレンダーに印を付け、前の日にパソコンの画面にメモが浮き上がるようにしてあります。毎月1、2回土曜日にトラクトを配るのですが、その時にファミレスに行き夕食を取り、デザートにチョコレートパフェを食べるのが楽しみです。二人で2100円ぐらいですがそれを楽しみにしています。考えてみれば子供でもそれぐらいのお小遣いは持っているでしょうが、そんな些細なことに生きている幸せを感じることができるように変えられてきました。
 家内から『あなたはお目出度い』と言われるのですが、一度は死んだ身です。今の人生をおまけのようなものです。おまけの人生なら楽しまなくては損だとも思っています。人間は必ず天に召されるのですから、今日一日幸せならばそれで良いと思えるようになってきました。
 私の金沢時代の若草教会の青年会長が私より遅れて東神大に入学しました。彼は私は神学に救われたのではない。町内のおばあさん(たぶん八百万の神々を信じていた?)が今日も一日感謝と言って生きている姿を見て救われたと言っていました。私も最近は少しずつ『今日も一日主に感謝』と心から思い、安らかに眠りにつくことができるようになりました。
 これからも寒い日が続きますがお体を大切にして下さい。特にKさんに主の慰めと励ましがあるように祈っています。
                          主にありて
  K様 
2005.1.21.          堀 俊明

触法精神障害者の社会復帰に思う 

 触法精神障害者の社会復帰に思う (02/07/05) 
 私は20年前に躁鬱病とアルコール依存症で金沢でも有数の大きな病院に入院していました。断酒会の存在を知った私の強い希望で、断酒会発祥の地である下司病院に転院しました。それでも院内飲酒をし、瞳孔が開き血圧がゼロになりました。臨死状態から息を吹き返した私は、生ける主イエス・キリストに出会いました。
 私は闘病生活の中で下司病院内の断酒会に出席しました。それだけではなく毎週金沢の病院に手紙を送り、金沢の病院の内のミーティングに参加し続けました。金沢の病院の院長は私が単にアルコール依存症だけではなく躁鬱病であるから治らないと診断しました。その院長が母親に誤診であったと謝ったそうです。
 私は20年近く完全に断酒をし続け、現在牧師として社会復帰をしています。躁鬱病も昨年体に合う新薬が発売され、健康な人に近い社会生活を送っています。
 この様に精神病の世界は未だに分からないことが多いのです。触法精神障害者の社会復帰の条件として再犯の恐れがない場合とあるようです。この判断を誰がすることができるのか私には疑問に思えます。
 瀬戸キリスト教会牧師 堀 俊明 53歳

触法精神障害者の再犯防止に思う

触法精神障害者の再犯防止に思う (02/06/10)

 私は躁鬱病でアルコール依存症の精神障害2級者です。精神障害者団体「西風の会」の代表をしています。
 私が初めて精神病院に入院させられた今から30年前頃は、精神病者は外来ではなく鉄格子の中に入院をさせられました。精神病者は精神病者であるという理由だけで何十年も社会から隔離されるのが当然のような時代でした。法を犯した精神病者は一般社会から隔離されて一生を送るのが当然でした。
 それが外来中心の医療に変わり、法を犯した精神障害者も社会に復帰出来るようになりました。その中のごく少数のものが再度法を犯すケースが最近目に付くようになりました。それに対して社会は戸惑いを受けながら対処しなくてはならなくなってきました。
 私は法を犯した者はたとえ精神障害者といえども健康な者と同じ刑に服さなければならないと思います。病気に対する治療は医療刑務所の中で受ければよいのです。社会がこの当然なことをしないがゆえに精神障害者に対する差別が助長されてきたのだと思います。
 私達はなにをするか分からない特別な者として社会から差別されてきました。その根元は精神障害者が社会の一員として守るべき義務を免除されてきたところにあると思います。
 私は、精神障害者も社会の構成員として当然守るべき義務を負っている事を認知していただきたく思います。

刑法改正に思う

刑法改正に思う (02/02/28) 

 精神障害者の措置入院は、私が長期入院をしていた精神衛生法時代は無期懲役刑に等しい待遇であったと思います。大きな精神病院には措置入院されたものだけの特別な病棟がありました。措置入院されたものは長期間社会から隔離されました。当時は精神病で入院した私にすら治療というものがなされませんでした。
 しかし、精神保健福祉法に変わり医療現場は確かに変わってきました。入院主体の医療から外来主体の医療に変わってきました。詫間容疑者のように措置入院させられたものもわずか1ヶ月ばかりで退院出来るのが現在の医療です。
 そこで新しい問題が起こりました。精神障害者ならなにをしても短い入院期間ですまされるという矛盾が起きてきました。そしてそれを悪用するものが出てきました。ここには現在の刑法の抱える矛盾があると思います。
 それは精神障害者が法を犯しても罰せられないと言うことです。これが精神障害者の自立を妨げる大きな障害となります。なぜなら責任能力がないと言うことを認めれば社会の構成員としての人権が否定されるからです。
 私達精神障害者は社会の中で出来るだけ自立していきたいと考えています。そのためには一個の人間として果たすべき義務を果たしたいのです。法を犯したら社会人として刑に服するという当たり前のことがしたいのです。
 このことがなされないと精神障害者は社会の構成員として認知されないと思います。なにをするのか分からない者として差別を受け続けるだろうと考えます。
 具体的な提案としては裁判所の判断で健康な人間なら服さなくてはならない期間を医療刑務所で過ごさすと言うことです。医学的に回復しても残りの刑期を刑務所で過ごさせるという方向で見直して欲しいのです。

薬と病気

薬と病気 (02/01/30)

 精神病の薬物療法が始まって、まだ半世紀も経っていません。薬物療法が始まり、精神病は病気として初めて扱われるようになりました。しかし、私が初めて入院した30年前は薬はあまり効かず、ただ入院させておくのが精神科の治療の中心であったようです。
 私にとって薬物療法はあくまで対症療法でした。心身ともに疲れ果てて点滴を打ってもらうのが日常でした。お疲れ入院といって、短期間の入院を年に何回もしていたときもあります。いずれにしろ病気に的確に効く薬はありませんでした。それがSSRIという薬で健康を取り戻すことができました。普通の人に近い生活を送ることができるようになったのです。
 精神病者は、人間的に劣った者と世間では見なされています。それが薬で回復したのです。精神病者は、生まれながらに人格が損なわれている者ではなかったのです。薬で治るということは、脳内の物質代謝に異常があったからです。異常があれば薬で治せば良いのです。 (西風の会  堀 俊明) 

薬と人生

薬と人生 (02/01/30)

 昨年新しく認可されたSSRIは、私には革命的に効きました。それまでは週に何回か点滴を打ちながら、辛うじて牧師をやっていました。私の一生は半分寝ながら終えるのだと思っていました。それがSSRIの出現で生活の根本から変えられました。まず睡眠が十分とれるようになりました。鬱で寝込むこともなくなりました。健康な人に近い生活がきるようになりました。
 私の人生設計は根本から修正されました。それまでは、私の人生はそう長くはないと思いこんでいました。半分寝込みながらの人生しか考えてきませんでした。残された人生の中でできることを考えようとしていました。それが予想に反して、健康な人とそう違わない人生を歩めると思った時に、私は未来に期待を持てるようになりました。
 神様は障害者である私に、瀬戸の地に教会を備えて下さいました。そして今神様は私に、この教会に仕えることができる健康も用意して下さいました。神様の愛と恵みに感謝しています。
                       (西風の会  堀 俊明)

ユーザーと呼ばれて 

99/6/26
ユーザーと呼ばれて 私はユーザーあるいは当事者という呼び方には馴染めません。
 とくにユーザーという言葉は、本来の英語の意味からすれば明らかに差別語です。USERと言う言葉は確かに利用者という意味があります。しかしそれは麻薬やアルコールの利用者という意味です。(ランダムハウス、研究社)
 ですから私たちの世代、中年世代が学んだ英語では、USER、ユーザーは薬物依存者と同じ意味で用いられていると感じても不思議はないでしょう。
 私はアルコール依存者ですから確かにUSERであったときがあります。しかし、アルコールを断って18年目になるのに、未だにUSER、ユーザと呼ばれるのは不当です。
 私は一世代前の英語を学びました。ですから、現代の英語の意味がいわゆる精神障害者用施設の利用者という意味を持ってきたのかどうかは知りません。あるいは、向精神薬の利用者という意味でユーザ?と言う言葉を使ったのかもしれません。
 しかし、いずれにしても、英語本来の意味からすれば明らかに間違った用法だと言って良いと思います。この様に、ユーザーという言葉はマイナスの語感を持ちます。差別語と言っても良いであろうと思います。
 向精神薬の利用者という意味を持たせても、向精神薬を麻薬やアルコールと同等のレヴェルに考えていると言われても仕方がないでしょう。
 向精神薬は私たち精神障害者にとってはなくてはならないものです。また向精神薬を飲まなければならないのは、精神障害者の世界では常識です。むしろ向精神薬を拒否する人をいかに説得するのかが精神障害者問題に関わる者の一番の悩みだと言っても良いだろうと思います。
 そのような状況の中で向精神薬を麻薬やアルコールと同じに論じたら、向精神薬を拒否する人を説得できないでしょう。また向精神薬を常用せざるをえない人が薬物依存者と同じレヴェルで論じられるのは不当です。
 医療行為として向精神薬飲む者と、向精神薬取締法で規制されている向精神薬利用者とは明らかに違うのです。この点をはっきりとしておかないと医療行為そのものが成立しなくなります。
 ではなんと言ったらよいのかと言われれば、私は精神保健福祉法により定められた精神障害者であるという表現がよいと思います。これは客観的な基準があるのですから、この様な法的な用法を取り入れたらよいと思います。
 日常生活では、私は普通に精神障害者という言葉を用いればよいと思いますが、これは各自の自由な判断に任せられるべきでしょう。いずれにしろ公的な機関がユーザ?という言葉を使うのは余りにも無神経です。 

ユーザーと呼ばれて,返信 

99/7/2
 S様、お手紙ありがとうございました。
 梅雨の末期の大雨で体調が今一優れないのですが、それなりにやっています。てこ・とこ・せとの方々には体調を狂わせた方が多いのではないかと推察しています。
 私は検査入院も終わり、特に異常はないと言うことでした。1/4世紀も病者をやっていると身体の様々なところにガタが来ています。生命に関わりかねない病気が片手ぐらいあります。その中で、牧師をやり西風の会やさんかく広場に関わっていると過労になるときもあります。
 ご指摘のように、言葉は確かに時代によって変わります。ユーザーという言葉は自家用車と共に広がってきた言葉であると私も理解しています。学生時代に、友人たちとカーマガジンと言っていたように思いますが,自動車雑誌を見ながら一度トヨタ2000GTに乗りたいなどと話していたことを思い出しました。
 これが今から30年前頃の話です。てく・とこ・せとに入っている人たちは、この時代に高度成長と引き替えに社会から隔離された人たちであると、Sさんは精華ランドで述べていらっしゃいましたね。
 私もこの時代に精神衛生法によって何年間もの入院経験があります。杉本さんは、てく・とこ・せとに関わるのも、この時代の人権を無視した制度に関わったものの一員として、贖罪の意味もあると言っていらしゃいましたね。
 それならば、あの時代に私が手に触れることの出来た最高の辞書であるランダムハウス1973年版(2分冊の大辞典)に、a chronic user of marijuna(マリファナの常用者)とあったのは、あの時代においてはUSERは特別の意味を持っていたと考えられます。ベトナム帰還兵が薬物中毒になってアメリカが疲弊していたころの言葉です。
 この時代に精神病院に入れられて何十年もの時間が停止した人たちに対して,あの時代に用いた言葉を用いるのは余りにも無神経だと思います。全精連がそこまで踏み込んだ議論をしたのかどうかは知りませんが、いかに当事者組織であろうとも余りの無神経さに私はあきれています。
もし、てく・とこ・せとにいる人たちを「あこめ」にいた人たちと言えば、高知では著しい差別語となるでしょう。この「あこめ」という言葉はトンネルが出来たからと言って差別語ではないと言い得るでしょうか。あるいは、精華園にいたと言うだけで高知では特別視されるのが現状ではないでしょうか。この様に時代が変わったからと言って、使っていい言葉とそうでない言葉があるのではないでしょうか。
 全共闘世代の私は、未だにバリケードの中から開放されてはいません。あの混乱した時代にアルコールや薬物に手を出すことはそう珍しいことではありませんでした。その薬物の利用者を意味するユーザ?と言う言葉は、私を過去に引き戻します。ですから、少なくとも、てく・とこ・せとの中ではユーザーという言葉を用いるべきではないと私は思います。
 てく・とこ・せとにいる人たちが過去の医療行政の被害者と見なすならば、ユーザーという横文字もどきを使うべきではありません。もし利用者と言うことにこだわり続けたいのならば単に利用者というきちんとした日本語を使うべきです。何でも横文字らしくすればよいと言うのは日本人の悪い性癖だと思います。いかがでしょうか。

断酒18年目の正月を迎えて

88会報 (00.01.01)
断酒18年目の正月を迎えて
                        堀 俊明
 断酒生活も18年が過ぎました。何となく過ぎたような気もいたしますが、振り返れば良くも断酒を継続する事が出来たものだと思います。
 断酒継続の秘訣は何かと言われれば、一日断酒の継続だろうと思います。断酒一日の人も断酒19年になろうとする者も一日断酒が原則であろうことにはかわりがありません。つまり、アルコールに対しては断酒18年の者も1日の人も全く無力であることには変わりがないのです。ただ断酒を継続できている者は、アルコールに対する接し方が上手になった人と言えるのではないかと思います。
 私はアルコールを飲まなくなって19年近くになります。しかし、夢の中では今でもアルコールを求めています。アルコールを飲むか飲まざるかを夢の中で悩んでいるのです。夜中に夢の中で飲酒して飛び起き、家内にアルコールを飲んでいないことを確認したこともあります。
 意識不明になって救急車で運ばれ、病室で意識を回復したときにはまた飲んでしまったと勘違いしたこともありました。病院のコンクリートの天上を見上げたときに飲んで入院していたころの記憶が甦ったのです。
 この様にアルコール依存症は現在の医学では治らない病気です。しかし、気の持ち方次第では、アルコールがない世界の中で生きていくことが出来ます。私は33歳になるまでアルコールがない世界を考えることが出来ませんでした。その私が今はアルコールのない世界を楽しく生きています。
 今は、瀬戸キリスト教会の牧師として働いています。聖職者として人から先生と言われる世界を生きているのです。牧師としてアルコールには無力であることを知ったこと自体が大きな経験でした。そしてそれらから離れた世界があることを知ることが出来たのも牧師として大きなプラスであったと思います。
 一人の人間として自らの弱さを知ったことは、私の人生を大きく変えました。一人の人間として弱さの中に生きることが、実は弱さが強さへと変えられる事を知ったのです。 アルコール依存者は確かに周囲の人々に大きな迷惑を掛けてきたでしょう。多くの人々を傷つけてきたでしょう。とくに家族には筆舌では語り尽くせない悲しみを与えたでしょう。
 しかし、アルコールの支配する世界を知ったことは決してマイナスではないと思います。この世に自分の力で乗り切ることの出来ない世界を知ることが出来たことは、これからの人生にとって決してマイナスではないと思います。
 人間は自分だけの世界では生きていくことが出来ないのです。自分を取り巻く世界を受け入れることから人生が始まるのです。アルコール依存症になったことはこの世の不条理です。しかし、その不条理の向こうに新しい世界が開かれているのです。その新しく開かれた世界に向かって新しい人生を歩み出しましょう。

アルコール依存症を理解してくれる

88会報 (99.6.24)
アルコール依存症を理解してくれる人 
堀 俊明
 昨日の例会のテーマが「アルコール依存症を理解してくれる人」というものでした。色々の意見がでましたが、私は断酒継続しかアルコール依存症を理解して貰うことが出来ないと思いました。
 私はつい先日50歳の誕生日を迎えました。私は断酒18年目を迎えようとしています。結婚生活も12年目になります。私たちは、私が躁鬱病でアルコール依存症であることを理解し合う中で、結婚生活を始めました。今では、私は精神障害2級に認定されています。
 私は、日本ではおそらく始めてアルコール依存者から牧師になりました。しかし、牧師の道に至るまで、様々な挫折を味わいました。エリート公務員からアルコールが元で何度も鉄格子の向こうの生活を味合わはなくてはならなくなりました。当然職を失いました。離婚も体験しました。
 私は、私の実家のある金沢で何度もアルコールを飲み、鉄格子のある病院に入れられました。その中で、ある日「断酒に捧げん」という故松村断酒会初代会長の生き様を書いた本に触れました。その本を読み高知でアルコール依存症を治そうと思いました。
 そして、高知に来て、下司病院で約1年間入院生活を送りました。その間、院内飲酒で瞳孔の開くようになったこともありました。しかし、1年間の入院生活と2年間の高知教会生活を経て東京神学大学に進学しました。そして卒業後、高知教会、香美教会を経て瀬戸キリスト教会の牧師となりました。牧師生活も14年になろうとしています。
 瀬戸キリスト教会は、開拓伝道をして出来た教会です。0から出発した教会です。当然教会員は私が躁鬱病でアルコール依存症であることを承知で集まってきた人たちです。教会員は精神障害者の牧師のいる教会へと集まってきたのです。
 牧師と精神障害者、とくにアルコール依存症者という組み合わせはこの世の常識から外れています。その常識から外れたところにむしろ神の選びがあると私は考えています。
 アルコール依存症という病気は、なった者にしか分からないものがあると私は感じています。そう言う意味では医者にすら分からない病気です。
 しかし、はっきりとしているのは治療法はあると言うことです。断酒継続が続く限り再発はしない病気です。その意味では癌などとは違い、確実な治療法があるのです。それが分かっているのにアルコールを飲まざるをえないところに、この病気の恐ろしさがあるのです。
 断酒をすればその向こうに必ず明るい未来が待っていることを知りつつ飲み続けるのを、健康な人間に分かって欲しいというのは無理があると思います。断酒を継続して、始めてあれは病気であったといえるのではないでしょうか。
 もし、断酒を継続しようと望むならば、何回失敗しても必ず断酒することが出来ると思います。あのように何度も鉄格子の向こうの生活をした私にすら断酒が出来たのです。断酒へと目を向けることが出来たならば必ず断酒が出来ます。
 私たちは、一人ではないのです。断酒会の仲間がいます。志を同じくする者がいるのです。一人では出来ないことも仲間とならば出来ます。この仲間との愛と団結の力でアルコールの誘惑を克服しましょう。そして、新しい人生を歩んでみましょう

断酒16年目にあたり思うこと

88会報 (98/11/15)
断酒16年目にあたり思うこと
堀 俊明
今年にはいり4回目の入院中です。躁鬱病は気候の変化に弱く、季節の変わり目にはたいがい入院しています。今でも入院をすると、16年前の記憶が鮮やかに蘇ってきます。私の断酒生活は401号室から始まりました。その時は、瞳孔が開き血圧が0であったようです。意識を取り戻すと母親がいました。金沢にいるはずの母親が、なぜ高知にいるのかが、一瞬理解できませんでした。そして、またやってしまったのかと思いました。自殺という言葉が脳裏をかすめました 私が自分が、どこか普通の人とは違うと感じだしたのは、京都大学を卒業して福井県水産試験場に勤めて1年経った時くらいからです。不眠が続き、精神科に一人で行きました。そこで躁鬱病と告げられました。 不眠と鬱の煩わしさで、酒量が増えてきました。その時代の向精神薬は、今のようには効きませんでした。私の酒は酒を楽しんで飲んでいるのではなく、薬代わりに飲んでいたように、今になっては思えます。鬱の時になるとアルコールを飲み、起きられなってきました。そして、金沢からは母親が迎えにきて、入院するということが一年に一回はあったと思います。 このように20代前半からアルコールをめくってトラブルがあったのですが、躁鬱病のせいだからかわいそうだという周りからの同情がありました。また仕事は研究職という特殊な仕事で、誰にでもできる仕事ではありませんでした。それに加えて、元気な時には人一倍仕事もしましたし、業績も上げていました。 そのような訳で、アルコールに絡むトラブルはあったのですが、すべて、躁鬱病からくるものだという周囲の理解がありました。また、私の飲酒態度は、周囲に好感を持たれるようなものでした。それが、結果的にはアルコール依存症であることの自覚をもたらさなかったのです。 縁があって、躁鬱病の私とでも結婚してくれる女性が現れ、20代半ばで結婚しました。しかし、結婚生活も一年有余しか続けられませんでした。その原因の第一はアルコールであったように思います。このころから、私の飲酒は常軌を逸しているのでないかと感じ始めました。しかし、それも、躁鬱病の症状の一つであると思い込んでいました。 20代後半に仕事を辞めて、郷里の金沢大学の研究室に入りました。この頃は重度のアルコール依存症の状態になっていました。精神病院の鉄格子の中で10回以上、3年以上は生活をしたと思います。しかし、禁断症状というものがなかったので、当の本人は躁鬱病で入院しているだとしか思っていませんでした。

 そのような私に転機が訪れました。最後の金沢での入院の時、母親がついに怒り面会に来なくなりました。そして、断酒に関する本を、10冊ばかり差し入れをしていきました。それを読んで、初めて、私のような禁断症状のないアルコール依存症のタイプがあるのだと気付きました。その時に救われたような思いがしました。病気なら治療すれば良いのだと思ったからです。 そして、そのための最も良いのは、断酒会発祥の地である高知に行くことだと思いました。私は、すぐに高知に行く決心をしました。そして、下司病院に一年間入院をしました。その下司病院で、私は危篤状態になったのです。 それは、初夏の頃です。一緒に入院していた友達が、外泊で飲酒運転をして大怪我をしました。その見舞いに行った帰り道で、あまりにも暑いのでジュースを飲もうと思いました。私は、自動販売機のところに行きました。その時に、ジュースではなく、隣にあるビールの販売機に無意識に硬貨を入れてしまったのです。 それから先のことは、ほとんど覚えてはいません。気が付いたら401号室に母親と一緒に入っていたのです。その時に、私はこのような自分に愛想が尽きて死のうと思いました。しかし、その時に、突然イエス様が「そのようなおまえでも、私は愛しているのだ」と言われたのです。 その時に、初めて、私はこのような惨めでどうしようもない者を愛して下さるお方の存在を知ったのです。その大いなる愛を知り、私にこの人生を受け止めて生きていこうという意志が生まれたのです。私は、それからの人生を、私を新しく生まれ変えさせた下さったお方のために生きようとしました。 そして、このイエス様の愛によって、私と同じ苦しみに会っている人たちの力に少しでもなることができればよいと思えるように変えられたのです。そして、東京神学大学に学士入学をし、牧師になりました。断酒15年は私の人生を確実に変えました。あのアルコール依存症で救いようのなかった男が、今は牧師をしています。 もし私にこの挫折がなかったら、私はこの世のエリートコースを歩んでいただろうと思います。おそらく、人の苦しみを本当の意味では理解できない人間になっていただろうと思います。人間的にいえば鼻持ちならないような人間になっていたでしょう。 私は地位も名誉も富も失いました、しかし、それ以上のものを得ることができたのです。断酒会の人がいう「アル中で良かった」というのは決して強がりではありません。人生の地獄を味わった者にしか分からない幸せがあるのです。

 アルコール依存症は、家族や社会を巻き込むだけに、癌よりも悪性の病気だと私は思います。他人に迷惑をかけないで一人で死ぬことはできないのです。しかし、癌とは違い確実な治療法があるのです。断酒さえできていれば、確実に再発はしないのです。必ず幸せな社会生活を送ることができるのです。 人生のやり直しはできるのです。1年、3年、5年、10年と断酒を続ければ自らが変わります。自らが変われば、社会の見る目が変わります。そうすれば、社会的信頼が回復してきます。私のように牧師になり、再び家庭を持つこともできるのです。 私は、アルコール依存症である今の方が、そうでない時よりもよほど幸せな人生を歩んでいると思っています。断酒15年も自然体で生きれば、そう辛いものではありません。 いつか気が付いたら、もうアルコールを断って15年も経つのかなーというのが本音です。結局、私たちアルコール依存者には、飲む自由と飲まない自由としか与えられていないのです。その中間はないのです。飲む自由を選択した者には、家族や社会を巻き込んだ死しかないのです。しかし、飲まない自由を選んだ者には、無限の可能性があるのです。 私たちはアルコール依存者として下司病院の門をくぐりました。もう後戻りはできないのです。アルコール依存症については、ある程度学び治療も受けました。しかし、これからの人生をどう選択するかは、私たち自身にあるのです。より良い選択をしたいものです。

料理教室奮闘記

料理教室奮闘記

最近の料理教室は様変わりをしました。マドンナM嬢につられて新しい人が来るようになりました。堀代表夫妻は材料の仕入れだけをしています。西風の会には堀代表だけが1時まで出ています。

 最近は世話人Kさんが献立を立てています。色々注文が多いようですが、出来るだけ皆の注文に応じているようです。

 最近はコスト削減で、以前より質量とも落ちるかもしれませんが、会費は200円台です。それから、堀代表は仕事があるので1時までしか出ることが出来ません。

西風の会も代替わりが始まったのかなーと感じています。料理教室を始めてから約10年になりますが、少しずづ堀代表の手から独立してきたようです。


 自分たちの好きな物を腹一杯食べようと言うポリシーは変わりませんが、男の料理に変わってきたようです。
 お米を洗うのはKさんの特技です。そして、男連中が慣れない手で包丁を握り、ガスレンジを使っています。
 ですから、ひたすら簡単な料理ですが、自分の手で作るところに意味があると思います。
 最初は慣れなくて、炊き込みご飯のお米と具の割合を間違えてしまったりしましたが、今は炊き込みご飯は定番のメニューになっています。  
 人数があらかじめ分からないので、お腹が一杯にならないときもあるようですが、楽しい一時を得ることが出来ます。


 デェイケアーと違うところは、自分たちで食べる分を自分たちで作るということです。
 このことは大切なことです。他人に依存するのではなく自分たちの力で事を成すことは自立の第一歩です。
 精神障害者は障害者と言われているように完全に自立することは出来ないかもしれませんが、自立に向かって歩み始めることが重要です。
 その意味で、この料理教室が自立し始めてきたことは大きな進歩だと思います。
 確かに、眞知子夫人がやっていた頃から比べると人数が減ってきましたが、その分自分たちでしなくてはならなくなってきました。
 最初は料理教室が崩壊するのかなーと言う思いもありましたが、しぶとく生き残っています。
 そして、精神病者の精神病者による精神病者の会というポリシーは保ち続けられています。
 このポリシーが崩れてしまうと西風の会の存在理由がなくなります。それこそデェイケアーと何ら変わらないものとなってしまいます。


 西風の会は自主独立の会です。自分たちの小遣いを出し合い、自分たちの活動費用に充てるのが会の趣旨です。
 その点に関しては、行政や病院依存の会とは明確に一線を引いています。これは、自分たちの未来は自分たちで切り開いていくという思いがあるからです。
 精神障害者になったことは確かに辛いことです。しかし、そのことに負けてはなりません。
 私たちも憲法で保障されている健康で文化的な生活を送る権利があるのです。
 そのためにも、私たちは力を合わせて立ち上がらなければなりません。そして、自らの力で歩み始めましょう。

お泊まり会

お泊まり会

 今年も、例年のごとく、瀬戸キリスト教会で、お泊まり会をしました。 今年のゲストは、東京神学代の高橋神学生と、駅前病院のPSWの野町涼子さんでした。共に初参加で、高橋神学生は、どんな人が来るのか、内心はらはらだったようです。


でも、皆様と接して「先生、この人たちは一体どこがおかしいのですかと質問してきました。野町さんも医療側ではなく患者さん側で仕事をするという大きな宿題を抱えていったようです。


でも、われら西風の会員は、そんなことに関わりなく、いつものペースで楽しんでいたようです。毎年恒例のカレーライスとハヤシライスに舌づつみを打ちました。


「二日がかりで、私一人で作ったのだー」と息巻く堀代表。「いつも家事を手伝ってくれれば良いのにー」と眞知子夫人の陰の声」。


とにかく楽しい夕食を終え、後は歓談の時。西風の会風で何のスケジュールもなし。めいめいが勝手に振る舞いました。ゲームをする組、ボケーと休んでいる組、めいめいが騒いでいる組、それぞれきな風にやりました。 


女性軍は2階に上がっても、色々おしゃべりをしたようですが、男性群は10時に薬を飲み、後は大いびきでした。


朝と昼は、今度は眞知子夫人の大活躍でした。たくさんの盛りだくさんの食事をして、後は西風の会ペ?スです。 会員の方も、久しぶりで修学旅行気分になったのではないでしょうか。


みんなで食事をし、一緒にごろごろするのはとてもいい気分です。普段のストレスが、いっぺんに発散していくような気分になりました。とにかく、暑い夏の一時、共に一晩の休暇を取ることが出来ました。


来年の夏もまたお泊まり会に参加しましょうね! 今からカレーライスとハヤシライスの腕を上げて待っているからねー!


ちなみに教会は全室クーラー付きです。参加料は一泊三食付きで500円です。 来年も今年同様に行いますので是非誘い合って参加して下さい。

料理教室を障害者福祉センターで開催

料理教室を障害者福祉センターで開催

 前回の西風通信で、例会の日を木曜日に変更しないかと提案しましたが、市の障害者福祉センターが平日には使用できないことが分かりました。
 理由は、平日はデェイケアーが行われており、料理室を使用すると言うことでした。このことは、センターの性質上どうしようもないことです。
 私たちは、月曜日あるいは木曜日に料理室を借りれないかと思い、様々な施設をあたりました。
 県や市のセンターにも問い合わせました。しかし、私たちの通える距離には、そのような施設がありませんでした。
 そこで、第一、三の土曜日に料理教室を、市の障害者福祉センターで行います。
 堀代表は、1時までなら何とかなるのではないかという感触を得ていますが、忙しい時には出ることはできません。
 そこで、世話人が国木さんに変わったことにより、今までとは違ったかたちで料理教室を開いたらどうかと思います。
 11時頃下司病院に集まり、大橋通りで買い出しをします。そして、11時半に障害者福祉センターに集合します。
 最初は慣れないので半製品を買ってきて、料理するのがよいと思います。前回は焼きそばを作り、大好評でした。料金もちょうど300円でした。
 今まで何にもかも眞知子夫人におんぶしてきましたが、そろそろ自立する良い機会がきたのであろうと思います。
 自分たちの力で料理を作り、腹一杯食べることは、良い交わりの時を得るだろうと思います。
 料理教室を始めた最初の目的は、300円で温かいご飯を腹一杯食べようと言うことでした。
 この初期の目的は達成できたであろうと思っています。デェイケアーが進み、ただ食べるだけならば、ディケアーのほうがより良い食事をとることができからだからです
 しかし、デェイケアーに付いていけない人が、少なからずいると思います。そのような人たちのために、西風の会が利用されると良いと思います。
 これまで、西風の会は、行政、福祉、あるいは病院から独立した団体でした。精神障害者の精神障害者による精神障害者の会として、自立してきた会です。
 この伝統を受け継ぎ、展開していくのは私たち西風の会員の力です。
 まだまだ地域には、孤独な生活をしている精神障害者がいます。それらの人々の集まる場として、西風の会が用いられることを祈ります。
 これまでは、堀夫妻は、自宅で下準議をしてきてから、料理を作りました。材料も特売のものを冷凍して、準備していました。ですから、料理にはかなりの時間とお金がかかると思います。
 これまで、十数年続いた西風の会の会計は完全に赤字です。中村君と堀代表が十万円台の献金をしてやってきました。
 この点については、皆様に知らしてなかったことは、堀代表のミスであったかもしれません。その結果悲しい誤解がありました。
 ですから、これからは毎回実費を支払うと言うことで、解決しようと思います。
 自主独立の西風の会の伝統を守りながら、お互いに助け合えば、眞知子夫人なしでも料理教室はできると思います。
 単身の男料理も、どんなものか楽しみです。それぞれ、自分でできる料理に、挑戦してみてください。
 自らの意志で、西風の会を守り育てる中で、新しい精神障害者のあり方を見い出すことができるのです

精神障害であること

精神障害であること


次長さんから「堀君は本を読まないから」と言われ少しむーときました。もし本が読めるなら、今頃は部長級の役人になっていたことでしょう。おそらく博士号も取得していることでしょう。


精神障害者だから、週に2回精神病院に来るのです。雀の涙くらいの障害年金で暮らしているのです。


それくらいのことが、なぜ他の人に分からないのでしょうか。それは健康といわれている人を基準にしているからです。精神病院の職員でさえこの程度です。後はおして知るべしです。


「さんかく広場」も建築にかかるまで、2年半の月日が掛かっています。精神障害者は何をするか分からないと言う偏見のもとで、闘い続けたのです。


私たちは何も好きこのんで精神障害者になったのではありません。ある日突然、鉄格子のある病院に入れられたのです。


その時から私たちの人生が変わったのです。人々から気違いといわれ、恐れられる存在になったのです。


職を奪われ、学業を諦めなくてはならないようになったのです。生きていくのが辛く、哀しい日々を送らなくてはならなくなったのです。


私たちが精神障害者であるのは、私たちの責任ではありません。いまだに科学的に解明されていない何かが脳に起こったのです。


精神障害者であるから、様々な差別の中で生きていかなければなりません。私たちはなぜ精神障害者であるのかを問い続けています。


しかしこの問題の答えは、現実としては分かりません。ただ神様の創造の御業の中で、私たちには分からない役目を果たしているのだろうと思います。


精神障害については、医師も職員もある程度の理解をしています。しかし、理解するのと障害を体験している者とは、決定的な差があります。


前者は客観的な知識で投薬します。しかし、それが体にどういう風に効いているのかは分かりません。


あるいは精神障害とは、いかに苦しいものかは分かっていないと思われます。鬱のどうしようもない倦怠感は、体験した者にしか分からないでしょう。


一人一人個性が違うように、一人一人の病状は違います。それを類推することは大変なことだと思います。


精神科では、客観的なデーターが出ません。医師の主観的な判断でいますが、私たちはこの診断を信頼して、診察を受けなくてはならないと思います。


人間が判断するのですから、間違いもあるでしょう。だからといって診察や薬を止めれば、再発、再入院の可能性が非常に高いのも、この病気の特徴です。


過去を振り返るのは止めましょう。元気で、希望に満ちていた世界のことは忘れましょう。これからどうやって生きていくかを考えましょう。

私は「精神障害者ではあるが、心は健康である」と主張しています。私たちは心の問題をもっと深く考えるべきです。それは、「心の病」と十把一絡げにされていたときの名残ですから

哀しい事件

哀しい事件

1997年2月12日に、高知県の山本病院で、20歳前後の看護者による患者さんへの暴行致死事件が起きました。トイレに閉じこもった患者を両足を持ち上げて、壁に頭を打ち続けるような暴行を加えたうものです。

私たちは、精神保健福祉法に変わり、精神病院の体質が変わるように期待していました。しかし、私たちのほとんどが経験している精神衛生法時代と、全く変わっていないことに気づかされ驚いています。


精神保健法の時代には、私たちは歩く不動産といわれていました。一度閉鎖病棟に入れられるとよほどのことがない限りたいいんは出来ませんでした。


治療の名目で、リンチを受けたものも少なくありません。独房、電気ショック、暴行、強制労働などが治療の名で、平然と行われていたのです。


皆さんの記憶に残っていると思いますが、あの宇都宮病院は特殊な病院ではなかったのです。全国の多くの病院は大なり小なり宇都宮病院と同じ事をしてきたのです。


その反省に立ち精神保健法、精神保健福祉法に変わってきたのです。しかし、医療現場は全く変わっていなかった言われてもしょうがないと思います。


私は亡くなられた患者さんには本当に気の毒なことをしたなと思っています。しかし、もっと可哀想なのは、暴行致死事件を起こした人たちです。20歳前後の身で責任ある対応を期待するのは無理だと思います。


おそらく山本病院では恒常的に暴力沙汰があったのだと思います。暴力を是認する職場で、夜間2人だけでは、冷静な判断が出来なかったのだと思います。


本当に追求されなければならないのは院長です。病院の管理責任者として恒常的な暴力沙汰を見て見ぬ振りをしていたのは、許されないことだと思います。


この様なことが法治国家で許されるはずはありません。しかし、これが現実なのですから私たちは私たちで自分の身を守らなくてはなりません。


私たちは、時には入院しなくてはならなくなる可能性を秘めていると言っても良いだろうと思います。その時に慎重に病院を選ばなくてはなりません。仲間の情報交換や助け合いがより大切になると思います。


今回のことで、高知県の精神保健福祉センターの竹島所長と話し合いました。私たちが安心して入院できる病院を、責任を持って紹介すると約束して下さりました。


私たちは精神医療の遅れを、身をもって体験しています。しかし、社会は私たちを受け入れるように少しづつ変わってきています。


未来に希望を持って1日1日を誠実に生きていくことに心がけましょう。

クリスマス会

クリスマス会

 

 12月21日に恒例のクリスマス会を開きました。 料理もこれまた慣例になりつつあるうどんすきでした。今回は骨なしの鶏肉がメインとなりました。


当日13時半きっかりに障害者福祉センターに行きましたら、ホールに5 ̄6名のものが既に来ていました。タバコを吹かしながら、がやがやとやっていました。


材料を運び込んで早速調理にかかりました。鶏肉を一口大に切り、野菜を洗い、切り分けました。 今年は女性軍が少なかったので、男性軍が慣れない包丁を握り締めました。鍋に入れる野菜を、薬味のように切ったり、一口では食べれないような大きさに切ったりして大奮闘でした。


いつも一番に作って食べている堀代表は、ただひたすら自分の鍋の準備に大忙し。脇目もふらず鍋の具を切っていました。食気先行で他の二班のことは、全く目に入りません。


鍋ができあがり、サー食べるぞ!と箸を付けたら、「もうー出来たの!」と半分怒るような眞知子夫人の声。 聞く耳は持たずと、ハイエナのように食いだした、第三班の大食い連中。


他の班はまだ準備を終えてないのに、代表自らさっさと食いだす西風の会のいつものパターン。 第三班が一回目の鍋が終わった頃に、ようやく他の二班は、第一回目の鍋ができあがりました。


後は食い気が料理室を覆いました。 黙々と食べるのに専念し、他の班まで食い荒らしに行く者。うーん育ちが分かるなと変なことに感心する堀代表。実は自分が一番食い意地が張っていて、できあがればどこの班の鍋も食い荒らすのに!とにかく、何やかにやで、用意した材料をペロリと食べ尽くしました。


残ったのはうどん一袋だけ。余ったらどうしようと鍋まで用意した眞知子夫人の心配は杞憂に終わりました。


お腹が張ったところで、楽しい楽しいプレゼント交換。いずれも工夫を凝らしたプレゼント。さて何が当たるでしょうか。『聖しこの夜』を歌いながらプレゼントを回しました。歌い終わり自分の手にあるプレゼントを広げました。 


堀代表から一人一人プレゼントを披露しました。ちなみに堀代表は、牧師には不可欠な礼装用の靴下でした。それぞれ工夫したプレゼントに皆大笑い。特に五百円玉には大笑いでした。 堀代表夫妻の合作?のケーキやお菓子を食べながら、しばし歓談の時を過ごしました。

お泊まり会

お泊まり会
 

今年も、例年のごとく、瀬戸キリスト教会で、お泊まり会をしました。 今年のゲストは、東京神学代の高橋神学生と、駅前病院のPSWの野町涼子さんでした。共に初参加で、高橋神学生は、どんな人が来るのか、内心はらはらだったようです。


でも、皆様と接して「先生、この人たちは一体どこがおかしいのですかと質問してきました。野町さんも医療側ではなく患者さん側で仕事をするという大きな宿題を抱えていったようです。


でも、われら西風の会員は、そんなことに関わりなく、いつものペースで楽しんでいたようです。毎年恒例のカレーライスとハヤシライスに舌づつみを打ちました。


「二日がかりで、私一人で作ったのだー」と息巻く堀代表。「いつも家事を手伝ってくれれば良いのにー」と眞知子夫人の陰の声」。


とにかく楽しい夕食を終え、後は歓談の時。西風の会風で何のスケジュールもなし。めいめいが勝手に振る舞いました。ゲームをする組、ボケーと休んでいる組、めいめいが騒いでいる組、それぞれきな風にやりました。 


女性軍は2階に上がっても、色々おしゃべりをしたようですが、男性群は10時に薬を飲み、後は大いびきでした。


朝と昼は、今度は眞知子夫人の大活躍でした。たくさんの盛りだくさんの食事をして、後は西風の会ペ?スです。 会員の方も、久しぶりで修学旅行気分になったのではないでしょうか。


みんなで食事をし、一緒にごろごろするのはとてもいい気分です。普段のストレスが、いっぺんに発散していくような気分になりました。とにかく、暑い夏の一時、共に一晩の休暇を取ることが出来ました。


来年の夏もまたお泊まり会に参加しましょうね! 今からカレーライスとハヤシライスの腕を上げて待っているからねー!


ちなみに教会は全室クーラー付きです。参加料は一泊三食付きで500円です。 来年も今年同様に行いますので是非誘い合って参加して下さい。

西風の会スタイル

西風の会スタイル
             

私のところには、全国から色々な会報が届きます。「ごかい」のように「キーさんパワー」に溢れたものから、「心の泉会」の様な田村真由美さんのファンクラブの様なものまで、千差万別です。本当に精神障害者の会か分からないものも多くあります。


特に「精神障害者手帳」や「精神保健福祉法」については正反対の見解があります。高知では感じないのですが、都会の「精神障害者の会」では激しい対立があるようです。


また行政指導型と自主独立派との間にも深い溝があるようです。 その様な姿を見ていると、これはお互いにしんどいだろうと思います。おそらくストレスに耐えかねて再入院をした人も少なくないだろうと思います。


だから、私達は、「全精連」や「反全精連」や、もちろん行政からも一定の距離を持たなければならないと思います。 今こそ「西風の会」の発起時からの約束事である政治と宗教の話はしないことを再確認しなくてはなりません。


「西風の会」はあくまでも運動団体ではないのです。親睦団体といえばよいのかもしれません。とにかく楽しければよいのです。


日常生活に疲れた障害者の、オアシスのような存在であるべきなのです。日頃閉じこめられがちな「障害者」にとって、明るい太陽の下でしばしの安らぎの時間をもてるのがよいのです。


何も難しいことを考え、行動する必要はないのです。心身をリラックスする時が、もてればよいのです。私はこのことがとても大切なことだと思います。 「病者」はどこに行っても居場所がない、仲間がいない、一人での生活で孤独にさいなまれる。このような訴えがよく私のところに来ます。


それにたいしての私の答えは、「西風の会」に来ませんかというものです。ですが「西風の会」にすら出られない人が多くいます。 その様なことを考え合わすと「ただ楽しければよい」という「西風の会」のモットーを、会員全員が「病者仲間に伝えていかなければならないと思います。

楽しい会

楽しい会
 西風の会は、結成して丸13年になる会です。端的に言えば精神障害者の精神障害者による精神障害者の会です。あくまでも精神障害者の独立組織です。ですからどこの組織にも所属せず、行政や、家族会、全青連、反全青連などからも一定の距離をおいた会です。


会のモットーは「とにかく楽しければよい」というものです。ですから規約や会費は一切ありません。あるとすれば「とにかく薬は飲もうよ」という暗黙の了解です。


これは第一に、自らを精神障害者と認めているということです。第2には、医療機関と良好な関経にあるということです。第三に、薬を止めることにより再入院を防ぐということです。


しかし、これは会員の暗黙の了解事項で、会員は何の拘束も受けません。しかしこれらを守っている人のみが、結局は西風の会に残っているようです。 


会の運営は、会員の献金によってまかなわれています。月一回の料理教室(300円)で出た黒字なども運営費に充てております。


例会は原則として毎月の第一土曜日と第三土曜日に行います。 一回は料理教室、一回はレクレーションです。 会員は好きなときに来たらよいというのが原則です。


3ヶ月に一回、代表から例会の案内が届きます。会員はそれを見て出たいときに出ればよいのです。事前には出席を取りません。そして、会の運営は、会員の献金によってまかなわれています。あくまでも会員の自由意志を尊重します。


例会の時間も2時間を限度としています。月2回、2時間の例会が、ちょうど西風の会員には良いペースだと思っています。例会の中では、他人に迷惑を掛けない限り総て自由です。何をしても良いのです。


たとえば、料理教室でもタバコを吹かしながら料理ができあがるのを見計らって、料理を食べに来る者もいます。ただひたすら料理を作る者もいます。何をして良いか分からず、うろうろしている者もいます。それでも、仲良く一緒に料理を食べるのが、みんな楽しいのです。


レクレイションは、花見や美術館など、県下の見所を季節に合わせて回っています。これは入場料のみ実費負担です。


私達は、普段はアパートの暗い部屋の中や、家庭にいてもいる場所が有りません。そのような者同士が、月二回二時間の期間を仲間と過ごすのが楽しみなのです。


しかし例会に出席しなければならないというプレシャーからは、身をまもる守る事が出来るように配慮しています。また過重な負担にならないように二時間を基準にしています。 


例会も、何をしても自由という原則で運営しています。あるいは誰が出ても自由な会です。若干のボランテアの人もいますが、会の運営主体は、会員にあります。

西風の会

西風の会

今年度から、西風通信を再開することにしました。何でもいいから投稿してください。

まず初めは、西風の会の設立について書いてみたいと思います。西風の会は、1984年12月に新谷のり子チャリティコンサートに参加した人の中から産声を上げました。その時の世話人がクリスチャンである私と中村君でした。私は代表に、中村君が幹事長になりました。

会の名前は、中村君が毛沢東語録より「東風は西風を圧す」という言葉を選びました。今は冬の寒さの中にあるが、やがて春が訪れるであろうと言う意味です。正式には「高知「精神」病者」の会というものでした。

会の発足からすぐに、私は東京神学大学に精神障害者として入学しました。休みは高知で過ごしましたが、その間は、中村君が会の運営に当たってくれました。月2回の例会は休むことなく続けられました。

東京神学大学卒業後は、私は高知教会・香美教会を経て瀬戸キリスト教会の牧師をしています。そして結婚をし、中村君の状態が悪くなるに従い、会の運営は、私たち夫婦が当たるようなりました。

発足から13年間あまり西風の会は休むことなく続けられました。この種の団体からすれば息の長いグループになるでしょう。何となく続いたという思いもありますが、それには理由があります。

会の発足から、この会は規約というものを持ちませんでした。行政からもどこの病院からも、援助は受けませんでした。自立した会として、会員の献金にのみ頼り運営してきました。

会の約束事としては、二つのことがありました。まず、会の中では思想・信条については、一切話さないことと、薬は必ず飲むことの二つです。後は一切自由です。何をしても良いことになっています。

会に集まる人々が、それぞれのリズムで参加できる、というのがその趣旨です。そしてとにかく楽ければよいということを、最優先にしています。何をしていても自由というのが、この会のモットーです。 
ですから、例会は、世間の常識からすれば、無茶苦茶かもしれません。各自が好きなことをしています。タバコを吹かせて話し合っているグループもあれば、ただひたすら昼食の準備をしている会員もおります。ぼんやり寝そべっているグループもあります。 

とにかく各自の主体性にすべてを任せています。会員には三ヶ月に一回案内を送るだけです。会への出欠はとりません。来たいときに来ればよいのです。毎回欠かさず来る人もおれば、何ヶ月に一回という人もおります。
それに、各自のプライバシーは完全に守ります。会員相互といえども、住所や電話番号教えることはありません。通っている病院も問いません。

あなたも気楽に西風の会に出てみませんか。